新学期 rentreeフランスでは、9月が新学期です。デパートやスーパーでは、新学期に備えた文房具やドリルなどが山積みされていました。新学期はフランス語でrentree(復帰)と言います。長いバカンスからの復帰という意味だと思います。政界も労働界も、renteeを使います。この場合は熱い季節の始まりという意味です。
学費は無料 フランスの学制は、小学校が5年制(6~11歳)、コレージュ(中学校)が4年制(12~15歳)、リセ(高校)が3年制(16~18歳)です。フランスではカトリック系などの学校をのぞくと、幼稚園から大学まで公立です(ですからフランスの教師の異動は全国規模です)。そして何よりも、授業料が無料なのです。また小学校とコレージュ(中学校)では教科書、文具も無料です(新学期に文具や鞄を買う費用相当分が支給されます)。給食費も国からの援助があります。大学は年間140ユーロの登録費を払うだけです。フランスの共和制は教育について、「将来のフランス共和国を支える子どもの教育は、当然国が直接責任をもつ」という理念をもっているのです。そして入学試験といえるものは、リセの最終学年におこなわれるバカロレア(高校卒業試験と大学入学資格試験を兼ねる)があるのみです。職業リセ(高校)の生徒は職業バカロレアを受けます。バカロレアの資格を持っていると、就職の際に非常に有利になります。
バカロレア bacaloreat 高校卒業および大学入学資格試験としてのバカロレアは、ナポレオンの第1次帝政(1808年)まで遡ります。1945年からは、技術の習熟度をはかる資格制度を設けようという声が産業界に高まったのをうけて、職業バカロレアが加わります。そして今日では、文学、経済学・社会学、科学の3分野からなる一般バカロレア、社会医学、工業技術、科学・実験技術、科学・第3次産業技術、音楽技術、ホテル業・装飾美術からなる技術バカロレア、そして38種類におよぶ職業バカロレアがあります。少し古い数字で申し訳ないのですが、2004年の合格率をみてみると、一般バカロレアが82.5%、技術バカロレアが77.1%、そして職業バカロレアが76.4%となっています。もっとも若い合格者は一般バカロレアの14歳、もっとも年長の合格者は社会医学の69歳でした。バカロレアは2回チャンスが与えられます。
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教会として建てられるはずであったパンテオン リュクサンブール公園に対面する緩やかな坂を登り切ったところ、カルチエ・ラタンのど真ん中にあるのがパンテオンです。パリを訪れる観光客にはあまり人気がないように見えますが、これほどフランスを象徴するモニュメントは他にはないのではないでしょうか?
もともとこの建物は、サント・ジュヌヴィエーヴ大聖堂として建てられたのです。メッスで大病を患ったルイ15世が、もし生き延びることができたら教会を建てることを神に誓いました。そしてその46年後の1790年、すなわち大革命後に完成しました。1791年に国民議会は、この建物をフランスに貢献した偉人のための墓所にすることを決議しました。こうして神に祈るためにつくられた聖堂は祖国の聖堂に変わり、偉人たちの墓所は同時に自由の祭壇となりました。そして「フランスのパンテオン」と名づけられたのです(パンテオンはギリシャ語で「すべての神」という意味、転じて「すべての神のための神殿」になりました)。パンテオンの切り妻の部分には、「祖国は偉人たちに感謝する」(私訳)という銘が金文字で彫られています(この銘は王政復古、第二帝政によって二度消され、第二共和制、第三共和制で復活しました)。

正面の切り妻に「祖国は偉人たちに感謝する」の銘があります
共和制の指標としてのパンテオン しかし第1次帝政下においてパンテオンは、偉人の埋葬と同時にナポレオンのための宗教的儀式の場に変わりました。そして王政復古の時代には、もっぱら教会としての機能をはたすことになります。しかし偉人たちの墓は掘り返されることはありませんでした(もっとも反教権主義であるヴォルテールの墓を取り除くよう求める意見はありましたが、毎日ミサを聞くことで充分罰せられるということに落ち着きました)。その後7月王政、第二共和制、第二帝政と政治体制の変遷とともにパンテオンの意義づけも変わっていきました。
この建物が共和国によって偉人が敬われる場、休息する場として確実に復活したのは、第三共和制が宣言されて15年後、1885年におこなわれたビクトル・ユーゴーのパンテオン埋葬の日を待たなければなりませんでした。パンテオンはその時々の政治が共和制にどれだけ距離を置いているか、共和制の原理であるライシテ(政教分離)がどれだけ貫かれているかの指標にもなったのです。

ビクトル・ユーゴーのパンテオンへの埋葬
パンテオンは、1871年のパリ・コミューンとも深い関わりを持っています。パリ・コミューンが成立して5日後に、パンテオンの切り妻の上に赤旗が掲げられました。そしてその二月後には、5区の防衛を任され、パンテオンのまわりに築かれたバリケードでベルサイユ軍とたたかったミリエールが、パンテオンの階段のうえで銃殺されたのです。彼の最後の言葉は、「人類万歳!」でした。

パンテオンの正面階段で銃殺されるミリエール
地下墓地の住人たち 偉人たちの墓はパンテオンの地下にあります。地下墓地の入り口には、大革命に大きな影響をあたえ、また生前はたがいに論敵でもあったヴォルテールとジャン・ジャック・ルソーの墓が、向かい合っています。そして最初にパンテオンの建築を手がけた建築家であるスーフロの墓があります。第4室にはレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン、彼の追悼演説をおこなったドゴール政権の文化大臣アンドレ・マルロー、欧州連合の構想を打ち立てた経済学者ジャン・モネなどの墓があります。第8室にはキューリー夫妻が、そして第24室にはアレキサンドル・ドュマをはさんで、ユーゴーとエミール・ゾラが眠っています。26室にはフランス社会党の創始者、ジャン・ジョレス(地下鉄 その3を参照)が眠っています。戦争反対を訴えたジャン・ジョレスは、1914年に右翼の青年に暗殺され、10年後の1924年に支持者や労働者の手で埋葬されました。
啓蒙思想家で大百科事典を編集したディドロ、そして大革命で活躍したミラボーとマラーは、一度はパンテオンに埋葬されましたが、遺骨は別のところに移されています。フランスを代表する哲学者デカルトはここに祭られていますが、遺骨はサン・ジェルマン・デ・プレ教会の地下聖堂にあります。大革命を遂行したロベスピエール(恐怖政治を実行したことで評価が分かれるでしょうが)やダントンなどが埋葬されなかったことは、私には意外に思われました。

ジャン・ジャック・ルソーの墓 「自然と真理の人、ここに眠る」と木棺に刻まれています