結局のところ、議会の気がかりは国民の食料であった。行政が他の権力と同様に弱体化しているので、唯一正常な機能を果たしている立法府が、行政府の機能に介入せざるを得ないのである。議会は食糧問題を解明すると思われる情報を、議会の食料委員会にも提供することを要求した。この情報は、国王自ら聖職者の議員団に提供したものだった。しかしその時の情報については、国王はもう提供するつもりはなかった。
朝、投票が始まろうとする時、議長は国王の手紙を手渡すために国璽尚書に召喚されたことを知らされた。この国王の手紙は、三身分の協力なしに何事も進まないと諭す内容である。それは絶妙のタイミングで、100名の反対者に手本を示し、長い論議のきっかけを作り、多数の優柔不断の者たちを不安にさせ、その意気を挫くであろう。
ではどんな名称を選択すべきであろうか?
ムーニエとイギリスの政治形態の模倣者たちは、次のような名称を提案した。少数部分の欠席のなかでの国民の「多数部分」の代表というものである。これは国民を二つに分裂させ、二つの議会の設置に導く表現である。
ミラボーは、フランス人民の代表という表現の方を好んだ。この言葉は弾力に富み、その意味するところは、伸縮自在である。
議会は消滅するか、あるいは前進して第二歩を踏み出すかだ。先ほど触れた簡潔にして重大な局面、すなわち特権と対峙する権利、議会に凝縮された国民の権利について、議会は大胆に考察すべきである。そのことを確認するだけでは十分ではない。それを示し、公布し、議会に真の称号を与えなければならない。
国民議会と。
6月10日、第三身分の最後の勧告。第三身分は、Communes(市町村)議会を名乗った。6月17日、Communes(市町村)議会は、国民議会という正式名称をもった。そして課税の権利を手にする。国王が議場を閉鎖させる。1789年6月20日の球技場(ジュー・ドゥ・ポーム)における議会。
ひと月延びた。招集がかかって三度の延期の後のひと月である!それは人々が食糧不足に苦しむ、ひと月なのだ!この長かった待機の間、富裕身分は休眠を決め込んで、全てにかかる出費を引き延ばしていたことに注目しよう。働くことを止めたのにである。自分の腕と日雇い仕事でしか、その日の食い扶持を稼ぐことができない者は、仕事を探しに行き、見つからないときは乞食をし、貰いがないときには盗みをするしかないのだ。いくつもの飢えた一団が国内を荒らし回った。これらの集団は、抵抗があれば怒り狂って人を殺し放火をした。恐怖が遠くまで広がった。そして通信が途絶え、飢饉が増大した。荒唐無稽な話が無数に流布した。盗賊は、宮廷が金で雇ったというのである。宮廷はというと、その非難の矛先をオルレアン公の方に向けさせようとした。
5月7日、第三身分はマルーエとムーニエの提案に従い、聖職者と貴族に対し、議場に来るよう働きかけるために数人を派遣することにした。貴族身分は一歩進めて、自分たちで議会を構成した。聖職者身分はさらに分裂を深め、ますます臆病になり、成り行きを見守ることにした。それに高位聖職者は、時間をかければ司祭たちを味方にすることができると信じていた。
5月6日、第三身分の議員たちは大広間を占拠した。ドアに詰めかけていた群衆が、待ちきれなくなって、議員たちの後を追いかけてきた。
貴族も、聖職者も、それぞれに自分たちの会場に落ち着いた。そして時を置かずに、議員としての資格を身分ごとに審査すること、審査は身分ごとの会議の中でおこなわなければならないことを決議することにした。貴族の中では圧倒的多数意見となったが、聖職者の中ではぎりぎり過半数であった。司祭の大部分は、第三身分と合流することを望んだのである。