レジスタンス国民会議が確立したプログラムを基礎として、臨時政府は1944年3月15日、
国の再建と近代化を推し進めるために、一連の社会的および経済的改革に手をつけた。労働者たちは、「生産のための戦い」に勝ち抜くためのキャンペーンに動員された。
すべての賃金労働者のための「社会保障」制度の創設が、
福祉国家の始まりを告げた。経済の中枢である産業と金融部門の
国有化は、生産の再開を促進し、投資を調整するはずである。1946年政府プランを検討する委員会の事務局長であるジャン・モネが、近代化および整備についてのプランを練った。これらの改革の全体は、民間部門が巨大な公共部門と共存する混合モデルの創設につながった。
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ペタン元帥の裁判(1945年7月-8月)ヴィシー体制の指導者の罪を裁くための高等法院が、特別に設置された。ピエール・ラヴァンおよびフィリップ・ペタンには死刑が宣告された。しかしペタンは高齢であるという理由で恩赦を受け、Yeu島での終身禁錮刑に減刑された。1951年に死亡。
告発の主な条項1.綿密かつ謀議による計画
2.平和に対する罪
すなわち侵略戦争もしくは、国際的な条約、保障、協定に違反した戦争の計画、準備、開始あるいは続行。
3.戦争の罪
すなわち戦争に関する法規および慣例の違反。この違反は、[…]占領地域の民間人の殺害、虐待、強制労働あるいはその他のあらゆる目的のためにする強制収容、捕虜もしくは海上における人びとの殺害あるいは虐待、人質の処刑、公共もしくは私有の財産の略奪、村落および都市の根拠なき破壊、あるいは軍事的要請と正当化できない蹂躙を含む。
4.人道に対する罪
すなわち戦前もしくは戦争中に、民間人に対しておこなわれた殺害、絶滅、奴隷化、強制収容その他すべての非人道的な行為、あるいは政治的、人種的、宗教的理由による迫害[…]。以上に規定した犯罪のどれかを犯す目的で、綿密かつ謀議による計画の準備あるいは実行に加わった首謀者、企画者、煽動者あるいは加担した者は、この計画を実行する上でなされた行為については、それが何人であるかを問わず、すべて行為について責任を負う。
国際軍事裁判条例第6条a-c項
開廷中の法廷
矢印左から、被告席、通訳、弁護席、判事席(一番右)、撮影係。手前は監視員と記者席
ドイツ、フランスそしてShoah
1960年代以降、ユダヤ人大量虐殺遂行の責任についての評価は、両国において歴史的論争を生み、世論に大きな反響を及ぼした。
戦争におけるドイツ人とフランス人フランスの占領は、オラドール・シュル・グラーヌ村[の虐殺]をもって始まった訳ではない。1940年当時のフランス人は、ドイツ兵に対する憎しみを抱くには、あまりも敗戦によって打ちのめされていた。占領軍に対して、できるだけ接触を避けながら、占領軍にたいし距離を置こうとした。解放されたときに、女性の頭を刈るという目を背けたくなるような光景は、ドイツ人と時々関係をもった女性(5万人を超える子どもが生まれた)に対する糾弾の激しさを表している。
ドイツ人の方は、フランスに対するヒトラーの扱いがポーランドにとった強圧的なところが全くないこともあって、自制的な態度を示した。しかし1941年から始まった人質の処刑、レジスタンス活動家やユダヤ人の検挙、強制労働奉仕STOの実施、そして住民に対する虐殺は、フランス人の心に、ドイツ人に対する根深い憎悪を植え付けた。その憎悪は、ナチズムの崩壊後も根強く残った。
公の場所のドイツ化1940年7月27日命令によって、建物の外面の脱フランス化が強制された。Kléber広場は、1939年スパイの罪でフランスによって処刑されたアルザスの独立主義者であるKarl Roos広場に変えられた。
cycle3(3-5年)の生徒は、制度について理解することを始めなければならない。最も重要なことは、制度の機能を覚えることではなく、制度が体現している原理あるいは価値、そして制度の一つひとつに対する市民の役割を発見することである。
公共サービス
どのように学習するかは教師に任せられる。
公共サービスには次の二つの種類がある。
―グループA→民間によっても保障されうるサービス。例えば、交通(国鉄、パリ市交通公団など)、通信(郵便局)、健康保護(公立病院)など。
―グループB→国によってしか保障されないサービス。例えば警察、軍隊、学校(私立学校が公立学校と同じ教育をし、区別なく全ての生徒を受け入れる場合は、公的サービスと考えられる)。
主題が何であろうとも、生徒は次の考えを段階的に理解するようになる。
「フランスの骨董品は、掃き出そう」1940年に制作された、Alfred Spàtyの署名があるこのポスターは、Straβburger Neueste Nachrichtenで印刷され、ストラスブールの壁に張り出された。背景にストラスブール寺院のカテドラルが見える。[雄鳥はフランスのシンボル]

フランスの解放
⇒連合軍の上陸
★レジスタンスの活発な地域
→連合軍の攻撃(英・米・仏)
■主なドイツ軍基地
■連合軍による解放地区(1944年8月31日)
■ドイツ軍占領地区(1944年8月31日)
⇒ドイツ軍の撤退
→ ドイツ軍の反撃(1944年12月-1945年1月)
▲_▲_▲1945年1月の戦線
フランスはいかにして解放されたか?そして戦争の総括は?
解放者の受け入れアメリカ軍落下傘部隊の兵士に飲み物を贈るサント・メール・エグリーズ(ノルマンディ)の女性
レジスタンスのビラ
このビラは1943年1月、南の地区の三大組織であるCombat [戦闘]、Franc Tireur [狙撃兵]、Libération [解放] が連合して設立したレジスタンス統一運動MURによって印刷された。
レジスタンスは、フランス人の間ではどのように支持されたのか?
ジャン・ムーランJean Moulin(1899年-1943年)1940年ヴィシー政権によって、ウール=エ=ロワール県知事の職を罷免される。1941年、ロンドンのド・ゴール将軍に合流する。1943年、フランス国内のレジスタンスの統合に成功する。1943年6月21日リヨン郊外のCaluireにて逮捕され、リヨン郊外のゲシュタポの責任者であるクラウス・バルビーによって拷問死させられる。
占領地区におけるダビデの星着用の義務づけ
1942年5月29日のドイツ占領軍は、占領地区の6歳以上のユダヤ人すべてに、ダビデの星の着用を強制する命令を出した。そしてヴィシー政権は、南の地区への着用義務の拡大を断念するだろうと判断した。写真は、1914年から1918年までの戦争で片足を失ったことで着用を免除されたVictor Fajnzilber
「ユダヤ人とフランス」展
1941年9月6日、パリで「ユダヤ人とフランス」展が開催された。ゲシュタポに従属するフランスの組織、ユダヤ人問題研究所が主催したこの展覧会には、30万人以上が入場した。
ヒトラーが考える協力 総統は、フランスに関して決して愛想の良い協調関係を持ってはならないと考えておられる。協力を語ることが有効なのは、せいぜい今のうちである。総統はなによりも事実を求められている。その他の言葉は、いっさいお聞きにならないであろう。もしこの戦争が、総統が言われるように終結するならば、フランスは高い代償を払わなければならない。なぜなら戦争を引き起こし推し進めたのはフランスであるからだ。フランスは、1500年当時の国境に引き戻されるであろう。すなわちブルゴーニュは帝国の領土に戻るのだ。
ゲッペルス、日記、1942年4月26日
ヴィシー体制が始めた「国民革命」と[対独]協力政策は、何によって構成されていたか?
ペタン神話
85歳のペタン元帥にたいする崇敬を組織するためのプロパガンダ・ポスター 「国民革命」と書かれている。
これまで気がつかなかったのですが、仏独共同歴史教科書の裏表紙に、この教科書の特性が書かれてありました。
仏独共同歴史教科書―フランス語版lycéeリセ(高校)2年(文系、経済社会系、理系)初めての試み・同じ内容をフランス語とドイツ語で書かれた共同の教科書である。
・内容が、フランスそしてドイツ16州のカリキュラムに完全に一致する教科書である。
・フランスのlycéeリセ(高校)の生徒と、ドイツのGymnasium第2課程の生徒が、初めて同じ歴史教科書を学ぶことになる。
(仏独の)視点を交差させる教科書・世界の歴史、そしてウイーン会議から1945年のまでの、ヨーロッパの歴史を概観することができる。
・ドイツの歴史について、率直な理解を豊かにする教科書である。
・ドイツおよびヨーロッパの源泉を見つけることができる資料集である。
3年用にも同じ内容が書かれていました。
昨日の夕方、公園に散歩に出かけようと、ピエール・グルニエ大通りを通りかかると、なんとブロッカントをやっているではありませんか?1年に一度ですけど、すっかり忘れていました。それで急遽散歩を冷やかしに変更。収穫もありました。
1940年6月18日の呼びかけ1940年6月6日に陸軍次官に就いたシャルル・ド・ゴールは、6月17日にロンドンに着いた。翌日イギリスのラジオ局(BBC)から放送された彼の呼びかけは、「自由フランス」誕生を表明するものとなった。
なぜフランスの敗戦は、第三共和制を崩壊に導いたか?
「奇妙な戦争」 1939年9月3日にフランスは戦争に突入したが、1940年5月まで大規模な軍隊を踏襲しなかった。こうしてドイツ軍がポーランドを数週間で撃破するのを黙視した。1914年から1918年までの記憶にとらわれて判断が鈍っていた参謀本部は、徹底して防衛的な戦略をとった。フランス軍の一部は、
マジノ線の要塞に閉じこもった。それは
「奇妙な戦争」であった。
占領されたパリ(1940年6月)
解放されたパリ(1944年8月)
この意味を理解するためには、生徒はシンボルの起源を知らなければならない。そして簡潔な歴史を知ることになるだろう。
Le 14 juillet (7月14日―革命記念日)
三色旗やマルセイエーズと異なって7月14日の祝日は、大革命のときではなく、1880年の第三共和制のときに誕生した。
起源そのときまで、国の祝日はカトリックの宗教的な祝日、君主制を讃える祝日であった。脱宗教 laïque をその精神とした第三共和制は、自由を求めるたたかいの記憶に国民を統合させるものを求めていた。そのためには、フランス人の全てが集まることができる行事をおこなわなければならない。歴史はひとつの日を提示する。すなわち1790年7月14日の「連盟祭」。