「仏独共同教科書」(第二次大戦の戦前・戦中・戦後)の紹介を終えることができました。おつきあいいただいた方には、心から感謝申し上げます。
7月26日に、一時帰国します。フランスに戻るのは8月22日です。勝手ながら、そのあいだ当ブログをお休みさせていただきます。申しわけありません。
皆様、暑い夏を健康に乗り切ってください。再開後は、またよろしくお願いします。
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トップ記事となったドイツ国防軍の犯罪(1997年)「ドイツ国防軍の犯罪」についての記事に第1面を割いたドイツの週刊誌は、東部戦線において遂行された暴力にたいするドイツ人の共犯についての論争に火をつけた。
自らの過去と向き合うドイツ「アウシュヴィッツ解放から60年、
千年の罪および質問―我々はまだ責任を負わなければならないか?」
Stern誌2005年1月号の表紙とアンケート結果
歴史修正主義の極右ベルリンにおいて、虐殺されたユダヤ人のための記念碑(Holocaust-Mahnmal),建立に反対するネオ・ナチのデモ、2000年1月
ドイツの過去に対する悔悟ワルシャワ・ゲットーの戦士の前に跪くヴィリ・ブラント西ドイツ首相
ユダヤ人の、ゼノサイドについての記憶の覚醒クロード・ランツマンの映画「ショア」のポスター(1985年)。クロード・ランツマンの作品は題名からして、ユダヤ人のゼノサイドを妥協なしに描くという特性を明らかにした意思の象徴である。監督は生存者の証言を、彼らがいなくなる前に撮影し質問することを優先させ、意図的に記録フィルムを使うことをしなかった。
ヴィシーの責任の隠蔽1956年にアラン・レネが制作した「夜と霧」は、ナチスの強制収容所の世界を最初にとり上げた、ドキュメント映画の大作であった。ピティヴィエ強制収容所の前で勤務につくフランス警察が映っている写真は、フランス当局によってカットされた(憲兵の警帽ケピは黒帯で消された[写真左上])。
共産主義者の記憶1941年シャトーブリアンにて、ドイツ将校を襲撃した報復として処刑された27人の人質を記憶するための、1950年代のポスター。
ヴィシー体制の存在はなぜ、長い間覆い隠され、挙国一致の抵抗というフランスの神話の背後に押しやられたのか?
占領下のフランスのもう一つの表情Marcel Ophülsの記録映画「悲しみと哀れみ」Le Chagrin et la pitié(1971年)のポスター。戦争中の日常生活の記録したこのフィルムは、1981年までフランスのテレビでの放映を禁止された。ここではレジスタンスは、極めて珍しい現象として紹介されている。
ショア―すべての人間の共有遺産元収容者でフランス共和国の元大臣のシモーヌ・ヴェイユは、2000年にショアの記憶のために設立された基金の代表である。
人びとが収容所に目を向けるまでに、40年の歳月、つまり二世代かかりました。1945年に強制収容所から復帰したとき、私たちを待ち受けていたのは、私たちが想像していたものとは違いました。誰も、私たちが生きていたと思っていなかったのです。私たちの出現は、人びとを当惑させたのでしょうか?私たちが語るべき経験は、不通の人の経験とは何の共通点もなかったのです。人びとは知ろうとはしなかったし、ユダヤ人には誰も関心をもたなかったのです。
ショアShoahの記憶は、長いあいだ無関心にさらされた後、いかにして記憶する義務として世界的に認められたか?
記憶の「アメリカ化」へ ― シリーズ「ホロコースト」1978年にNBCが放映した、シリーズ「ホロコースト」は、1億人の視聴者を獲得し、視聴率の記録を塗り替えた。
アメリカ合衆国にある第二次世界大戦の記念碑2004年ワシントンにおいて除幕した第二次世界大戦の記念碑は、40万人の戦死した兵士を含む、アメリカ軍に志願した1,600万人に捧げられた、最初の国立モニュメントである。
第二次世界大戦の記憶は今日、価値が対立した諸国民を、共通な価値の周りに結集させることができるか?
ドイツ連邦共和国は、ノルマンディ上陸の60周年記念行事に招待された。2004年6月6日、カーンでおこなわれた式典における、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相とフランスのジャック・シラク大統領。
第二次世界大戦の記憶は、人びとの中に深く根を下ろしている。しかし1945年以降の年代にとって、それは大きく異なった意味合いをもつようになった。勝利あるいは敗北を思い起こす愛国的な式典は、無数の戦争の犠牲者を追悼する普遍的な式典に場所を譲った。大量虐殺の悲惨な記憶は、戦士たちの英雄的な記憶を凌駕していった。世界がより不確かになりつつある中で、残虐行為を二度と犯さないために、式典と回顧の場所の存在が次の世代に対し、記憶する義務を訴える。

第二次世界大戦は、国民の共有の記憶にどのような刻印を残したか?

フランスとドイツは、どのように自らの過去と向き合いましたか?そしてヴィシー体制と国家社会主義の犯罪を想起させる記憶についての葛藤を、どのように乗り越えようとしたか?
「移行期の憲章」次の社説は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の1945年8月3日付に載せられたものである。
ポツダム合意における領土の確定
―1973年の国境、
・・・ オーデル・ナイセ線、
―1947年の国境、
■イギリス占領地区、
■フランス占領地区
■アメリカ占領地区
■ソ連占領地区
[訳注]オーデル・ナイセ線―ポツダム会談で決められた、オーデル川とその支流のナイセ川による国境画定
ポツダム会談によって、ドイツは占領地区に分割された。「西ポーランドの国境の最終画定」(オーデル・ナイセ線)は、「平和条約が結ばれるまで持ち越し」せざるをえなかった(ポツダム合意Ⅳ.b)。同時に西側諸国は、ドイツ住民の強制退去を経験に照らして確認し、「この移動が、秩序を保ち人道的でなければならない」と表明するにとどまった。
[訳注] 平和条約は、1990年に旧占領4か国との間に結ばれたドイツ最終規定条約を指す。

「5年間の猶予を、私に与えてください。あなたは見たことのないドイツを目にするでしょう」アメリカ兵が、ヒトラーの言葉を嘲笑的に引用した掲示板。1945年4月18日、ケルンで撮影。
降伏の翌日、ドイツにはどのような自由の余地が残されていたか?
1945年5月8日―象徴的な日付 当時のドイツ人にとって、そして今日のドイツ人にとって、ドイツが無条件降伏した1945年5月8日は、両義的な意味をもつ。つまり解放であるとともに敗戦という意味、そして再生の意味である。
主要な国営化1944年12月 北部とパ・ド・カレの鉱山
1944年1月 ルノー工場
1945年3月 エール・フランス
1945年12月 フランス銀行、クレディ・リヨネ銀行、ソシエテ・ゼネラル銀行、国立商工業銀行、パリ国立割引銀行
1946年3-4月 フランス電力公社EDF。フランスガス公社GDF、フランス石炭公社CDFの創設。34の保険会社の国有化。
1948年3月 パリ市交通公団RATP