
Ian Kershaw
イギリスの歴史家。1943年生まれ。伝記のなかでヒトラーについて考察する。伝説ではなく、社会が生み出した人物として、ヒトラーを捉える。
シュピーゲル紙
歴史家たちの間で、ヒトラーが国内政治の過激化の扇動者であったか、あるいはナチス党の地方や地域の責任者の圧力に譲歩したかについて論争がありました。Hans Mommsenは、ヒトラーを「非力な独裁者」と形容しました。
Kershaw
彼の決定の中にいくつかの弱さの例を見出したにしても、ヒトラーは非力な独裁者ではありませんでした。能力に欠けモルヒネ中毒だったヘルマン・ゲーリングをドイツ空軍の総司令官から解任しなかった事実は、たしかに彼の力の証明にはならないでしょう。しかし重視しなければならないのは、たとえば外交や戦争といった重要な決定は、すべてヒトラー自身がおこなったということです。1940年フランスと、1941年にはソ連との戦争を試み、またドイツ国内、東西ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させようとしますが、だれも彼に圧力をかけようとはしませんでした。
シュピーゲル紙
しかしヒトラーとナチス党、行政機関とドイツ国防軍とのあいだの相互作用はどう説明しますか?
Kershaw
私は1934年にプロシャの農業担当の国務長官であった、国家社会主義者のWerner Willikensが、国家社会主義の専従職員を前にしておこなった演説のなかに、指導者としての彼を見出します。彼は、「総統を お迎えして働かなければならない」と言ったのです。[…] ヒトラーは不変のヴィジョンは持っていましたが、たとえばユダヤ人をが虐殺するとか、東欧の重要な地域を手に入れる戦争といった具体的なプログラムは持っていませんでした。しかしヒトラーは、つねに最も過激な解決策を採用することは知られていたので、占領地における彼の協力者、行政および虐殺の専門家たちは、彼らの最も過激な提案がヒトラーの観点から時機に反していないかぎり、ベルリンは同意を与えることを知っていました。
シュピーゲル紙
それは実践の中では、どのように展開したのでしょうか?
Kershaw
たとえば1940年の夏に、ドイツ国防軍の陸軍中佐であったBernhard von Lossbergは、ヒトラーがソ連に対する開戦を検討していることを知りました。彼は自発的に、対ロシア戦の作戦案を作成しました。ヒトラーが作戦プランを用意するように命じたとき、司令長官のAlfred Jodlは、作戦プランはすでに出来ておりますと誇らしげに告げました。[...] ヒトラーは、イデオロギー的衝動を露わにしました。作戦プランは、党の専従、公務員あるいは軍人によって、より過激な形をとって作成し直されました。彼らの案には、過激でないところはなに一つなく、ヒトラーが手を加えるところはたいしてありませんでした。彼が望んだことは、彼が口を出さなくとも論理的に展開しました。
シュピーゲル紙
しかし、最終決定はヒトラーに帰することは疑わないのでしょう?
Kershaw
もちろんです。1936年にユダヤ人であることを告白したユーゴスラヴィア人David Frankfurterが、スイスで当地のナチス党の責任者であったのWilhelm Gustloffを暗殺した時、ヒトラーは、国内において反ユダヤ運動を起こすことは、その時は何の利益ももたらさないことを教示し、何も起こりませんでした。1938年の水晶の夜の時は、逆のことをしました。ヒトラーは事件をけしかけたゲッペルスに同意を与え、いくつものシナゴーグが火災に見舞われました。
2000年8月21日のインタヴュー シュピーゲル紙
<学習の足跡>
1.A.Bullock、S.Haffner、Ian Kershawの分析によれば、国家社会主義体制におけるヒトラーの役割はどのようなものであったか?それぞれの視点を簡潔に述べなさい。
2.ナチスの体制を理解するうえで、A.Bullock、S.Haffner、Ian Kershawが提起した解釈の価値について討論しなさい。これらの主張を評価するために、この章あるいはあなたが接しうる他の情報から引き出した歴史認識を動員しなさい。
3.三人が提起した解釈のそれぞれの中で、国家社会主義の国家の機能を支えたエリートについて判断を可能にするのは、どの部分でしょうか?
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