(逆風満帆)体当たりで少年らの自立促すイラク支援ボランティア 高遠菜穂子(中)
<前略>
国境を越え、4度目のイラク入り。危険地帯のファルージャを迂回(うかい)する途中、ガソリンスタンドに立ち寄った。気づくと車は数十人の住民らに取り囲まれていた。刺すような視線。
「ヤバニ ムー ゼン(日本人はよくない)」。男が怒鳴り、親指で首をかき切るしぐさをした。小型の対戦車ロケット砲を背負った覆面の男が走ってくる。運転手が抱きついてなだめても収まらない。「殺せ」「スパイだ」
車で拉致された。連れ込まれた薄暗い室内に、重武装の男たちが荒々しく入ってきた。目隠しされると、「ノー コイズミ!」と男たちが大合唱し、「お前も叫べ」とばかりに、のど元に硬い物を押しつけられた。刃物か。恐怖に駆られ「ノー コイズミ!」と繰り返し、嗚咽(おえつ)した。この時の映像が日本のテレビで流れるとは思いもしなかった。
砂漠の中の建物や民家を転々とし、軟禁は9日間に及んだ。イスラム宗教者委員会に保護され、日本大使館で初めて自分たちが「人質」として利用されたことを知った。
■バッシングに心が崩壊
待っていたのは、過熱取材と猛烈なバッシングだった。ドバイに迎えに来た家族から、日本では「自己責任」という言葉で批判されていると聞かされた。
「『人質報道』に隠された『本当の話』」(週刊新潮04年4月22日号)、「『運まかせ人質3人組』生い立ちと家庭環境」(週刊文春同日号)――。3人のプライバシーを書き立てる報道の嵐。「人質事件は自衛隊撤退をもくろんだ高遠らの自作自演」との説まで流された。
「受け止めきれず、自分が崩壊しました」。心のバランスを崩し、帰国後は自宅に引きこもった。
中傷、脅迫の手紙やはがきが届いた。母は娘の目にふれないよう隠していたが、ある日、郵便受けのはがきを見てしまった。家族の名と「天誅(てんちゅう)」の2文字。「私が殺されていればよかった!」。わめいていると母にぶたれた。「いつまで寝込んでるんだ。早く起き上がってイラク人に会ってこい!」
母の厳しいひと言が、立ち直りのきっかけになった。7月、報道陣が詰めかけた東京・中野のホールで講演。改めてイラク支援を呼びかけ、市民団体「イラクホープネットワーク」を設立した。
<以上、朝日デジタル2014年8月9日付>
一方フランスでは・・・
2004年の8月に、二人のフランス人記者がイラクで人質になる事件が起きました。
シラク大統領は、「私は二人とその家族に、すべてのフランス人の名において、われわれの連帯と決意を述べたい・・ 釈放を勝ち取るまで、できうるこ「」とのすべてをおこなおう」とメディアを通じて国民に呼びかけました。テレビやラジオは連日、各界の有名人の連帯の言葉や自作の歌を流し、パリ市庁舎には二人の顔を大写しにした幕が掲げられました。フランスはまさに連帯一色になりました。
そして12月、二人の解放の報に接した大統領は、「二人はすべての国民とともに待ち望んだ解放を手にした・・・わたしは、この解放をもたらしたすべての国民の動員と団結に敬意を表する。国民はそれぞれの個性に従って、団結と連帯と価値を発揮するために一つになった。・・・」と国民の連帯を讃えました。
ブログ「イル・サンジェルマンの散歩道」より
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