1943年3月27日占領下のパリで、フランス国家の真の対抗権力である、レジスタンス全国評議会CNRが結成された。1944年3月15日CNRは、フランスの解放のためのレジスタンスと結集し、新しいフランスの基礎を打ち立てることを目的とした行動綱領を採択した。
□国家の再建の段階
国内および国外に向けた、フランスのレジスタンスの宣言。
ジャン・ムーランの活躍(1942年)によって、ドゴール将軍が、共産党を含めたレジスタンスの唯一の指導者として認められた。にもかかわらず仏領北アフリカに上陸した(1942年11月)連合軍は、 まったく合法的な軍隊「戦うフランス」を正規の手続きを経ていないと拒否した。ドゴール将軍はレジスタンスの主な指導者、労働組合の全国組織(CGT、CFTC)の指導者、レジスタンスに参加していない政治家を含めた戦前の政党指導者によって構成された、レジスタンス全国評議会の結成をもって、その正当性を主張した。同時にドゴール将軍は1943年6月に、アルジェリアにおいて、フランス国民解放委員会を中心にレジスタンスと旧議会勢力とからなる諮問会議を開催した。
レジスタンス全国評議会CNR
ジャン・ムーランの逮捕(1943年6月)の後、レジスタンス全国評議会CNRはジョルジュ・ビドーを議長に指名した。より効率的にするために、5名からなる執行部を設置、それぞれがいくつかのレジスタンス運動を代表した。執行部は、社会党と急進党を代表するビドーの他に、共産党のピエール・ヴィヨン、CGTのルイ・サイヤン、共産党に近いレジスタンス運動を束ねるパスカル・コポーなど、左翼が支配した。マキシム・ブロック・マスカールのみが、北部の「ブルジョア運動」を代表した。1944年3月15日、ピエール・ヴィヨンを中心に起草されたレジスタンス全国評議会のプログラムが採択された。フランスがまだ占領下にあるなかで採択されたそのプログラムは、社会改良的な性格をもった提案が重要な位置を占めた。
行動プログラム
CNRの行動プログラムは、二つの部分からできていた。一つは「大陸においてフランス軍と連合軍がこれから取りかかる軍事行動」への参加である。いいかえれば、連合軍の上陸と同時に、占領に対する蜂起を準備することであった。二つめは、「解放の直後から採用されるべき措置」であり、政治的、経済的、社会的プランについての政府の真のプログラムであった。
スポンサーサイト
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/1058-8bc0e59d