今年も
ギィ・モケの手紙を読むことが義務であるとして、すべてのリセに押しつけられました。リベラシオンは、教師からの聞き取りなどで、実施の日の現場の様子を取材しています。
Lettre de Guy Môquet: obligatoire n'est pas français 23 octobre 2009
ギィ・モケの手紙 : フランス人は押し付けを好まない政治の世界ではまず発表があって、次に現実がくる。しばしばこの二つの間には溝、それどころか深淵が横たわる。ギィ・モケの手紙の場合もそうである。10月22日大統領特別補佐官であるHenri Guainoは、フランスのすべてのリセ(高校)において、手紙を読ませることは「義務である」と声を高くして言った。緊急におこなった小規模の調査では、政府の思惑とはかけ離れている結果がでた。「従った」教師も、クラスでは自分の思い通りにおこない、それについて外部に話すこともなかったようである。要するに、政府が期待したものはなにも見出せなかった。
ちょっとした論争が巻き起こった。2007年、ニコラ・サルコジは当選後の二回目の演説で、今からギィ・モケの手紙は、彼が銃殺された1941年10月22日を記念して、毎年この日にすべてのリセで読まれるに違いない。ドイツ人によって26名の他の捕虜とともに17歳で銃殺された若いレジスタンス闘士は、銃殺の前日に母親に宛てて、この心引き裂かれるような手紙を書いた。
2007年8月30日、サルコジ政権の優等生であるXavier Darrcos 国民教育大臣は、神学校やリセの校長などにひとつの文書(ギィ・モケと彼の26人の銃殺された仲間の追悼と題する)を送った。そこで彼は、10月22日は「クラスであるいは多数集まったところで、ギィ・モケの手紙を読むことによって」一日を始めること、そしてそのあとでギィが今日の若者のために彼が示した模範について、みんなで深く考えることを求めた。
発表は論争の引き金となった。教師、とくに歴史の教師たちが、このようにフランスの若いレジスタンス闘士への追悼として紹介するという儀式を押し付けられることに反対した。手紙そのものは 大部分の教師は、歴史の理解を助けるにはあまりにも情緒過ぎると考えている。それに歴史的背景は単純ではない。ギィ・モケが共産党の闘士であり、逮捕されたときは、モロトフ・リッベントロップ協定(ナチスドイツとソ連の不可侵条約)がまだ有効であったこともそのひとつである。
最初の年は、Xavier Darcosは成功を強調した。彼は手紙は95%のリセで読まれたことを声を高くして言った。しかし多くの場合、それはリセの掲示板に貼り出しただけのことであったりした。2008年は大臣がそれほど固執せず、この日をどういう風に始めるかは教師の教育の自由に属することだと述べた。
しかし今年はどうしたわけかHenri Guainoが、自分ががんばらなければと考えた。彼は、これは「義務」であり、教師は「従わなければ」ならないと繰り返し述べた。
これから我々が電話での聞き取りとメールによっておこなった緊急調査の抜粋を紹介する。
ロワール・アトランティック県*3 のリセの教師は次のように語った。「10月22日、私は1学年の歴史の授業を持っていた。この日私は生徒に、1877年のAlfred Krupp*1 の手紙について勉強させた。自分の従業員に社会主義やマルクス主義と縁を切ることを迫り、彼の条件に合う人間を現場の責任者にすることを求めた人物だ。実は私は、レジスタンスについて勉強するとき、以前からManouchian *2 の手紙を使うことを好んだ。ギィ・モケの手紙は感情が勝ちすぎている。資料でその時代を理解させることが何よりも大切だ」。
リヨンの国際学園都市の最新のブログでは、二つの出来事が10月22日付けで紹介されている。それは中学のクロスカントリーがおこなわれたことと、17時40分に第6学年の父母と教師の会合が持たれたことである。
「クロスカントリーはローヌ川の土手に沿った美しいコースで、午前中の全時間割を使っておこなわれた」とある教師が書いている。
パリ郊外では、私が手紙のことで質問したときに、あるフランス語の教師はとても驚いていた。「それについて誰かが話すのを聞くこともなかったわ。私のボックスには校長の指示も入ってなかったし、職員室ではそれらしい話もなかった。私の知る限りでは、無関心が支配的だったわ」
これもイル・ドゥ・フランスだが、歴史の教師が次のように語ってくれた。「同僚たちが、リセに着くなり手紙を読ませることは義務なのかどうか聞いたので、それは個人の問題だ、各々の考えでやればいいんじゃないかと応えた。とにかく私は手紙を読ませない」。
パリ地方のもう一人の教師は、彼は数学だが、次のように語ってくれた。「10月22日のことだが、職員室では教師の誰一人としてそのことを話題にするものはいなかった。私は手紙を読ませることが忘れ去られたか、あるいは、同僚には話さず、教室でこっそりとやったのではないかと思う」。このリセはニコラ・サルコジの訪問を受け入れた学校である。彼はおそらく確信がないのだろう。
*1 ドイツの自動車・鉄鋼の巨大企業クルップ社の社長。兵器製造などで大財閥を作り上げた。
*2 対独レジスタンス組織の責任者。彼と仲間と一緒に銃殺された。その処刑を知らせる赤いポスターがパリの壁に、いっせいに貼り出された。「
村野瀬玲奈の秘書課広報室」および当ブログの「
ユダヤ人強制収容所ドキュメント・センターを参照。
*3 ギィ・モケが処刑された収容所は、ロワール・アトランティック県のシャトーブリアンにあった。
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昨日の "一週間ぶりの更新" は、ひどかったですね (笑)。
変換ミスこそ "いつものとおり" でしたが、誤字・脱字は目に余りました。
天敵からの "...