アウシュヴィッツ収容所を訪れて(その2)

囚人が工場に働きに行くときに、囚人の音楽隊が演奏して見送った。
アウシュヴィッツ収容所には42年からは、ポーランド、ドイツそしてドイツが占領した国々からユダヤ人、共産主義者、ジプシー、精神障害者、同性愛者などが送られてきました。独ソ戦が始まるとソ連兵の捕虜も収容されましたが、大部分はユダヤ人でした。
展示室には縞模様の囚人服がありました。この薄い生地で身をくるみ、寒いポーランドの冬を耐えることは、想像を超えるつらさだったのではないかと思いました。囚人服にはそれぞれの階層を示す色別の三角ワッペンと囚人番号がつけられていました。
囚人の点呼は数時間、ときには19時間にも及ぶことがあり、懲罰の時には、かがんだ姿勢で手を挙げたまま、数時間も耐えなければならなかったそうです。
囚人たちは、近くの工場、鉄工所、炭坑でも働かされるようになりました。解放されたポーランド人の政治犯だった人が、囚人たちが整列させられ、囚人が演奏する音楽に合わせて行進し工場へ出かけていく様子を克明に描いた絵も展示されていました。工場では休息はおろか、いつも走りながらの労働を強いられました。食糧不足や拷問も加わり、帰りは手押し車に死体を積んで帰ることが日常化しました。
展示室には囚人の顔写真と入所日と死亡日が貼ってありました。ガイドの方は、「死亡日から入所日を引いてください」言いました。どれも3月から4月しか生きていませんでした。これはナチスが一日のカロリー量を1500カロリーと制限したためだそうです。各地から運ばれる収容者を受け入れるためには、労働可能な囚人も計画的に死に至らしめなければならなかったからです。
もう一度日にちを確認して、外に出ました。強い日差しがまぶしいくらいでした。

囚人服(パリのユダヤ人強制収容所ドキュメントセンターで展示)。
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