アウシュヴィッツ収容所を訪れて(その6)

フランス語で刻まれた碑文
虐殺の事実をかたる写真や書類は、囚人が偶然に収容所内の模様を示す写真や書類の束を発見したもの、あるいは物品管理係から買収したカメラで決死の思いで隠し撮ったものを持ちだしたものだそうです。もしこうしたことがなければ、ナチスの情報管理と操作によって、収容所でおこなわれた組織的犯罪の全貌は明らかにならなかったかもしれません。

焼却場では間に合わず、空き地で死体を焼却する様子。買収したカメラで写したものです。
ガス室・焼却炉に入る前に絞首台があります。1947年の4月、収容所長だったルドルフ・ヘスはここで絞首刑されました。その近くには犠牲者国際記念碑があり、犠牲者を出した国の数だけ、それぞれの言語で事実を記したプレートが並んでいます。
この収容所の管理は、はじめポーランド政府が負担していましたが、いまは各国が資金を出し合っています。ドイツの資金がぬきんでて多いそうです。最近ユダヤ人墓地での落書きが多発しているフランスでは、青年に収容所を見学させる予算を組んだそうです。
収容所所長であったルドルフ・ヘスは、ガス室・焼却場のすぐそばに家族と一緒に住んでいました。家庭では良き夫であり、優しい父親でした。
アウシュヴィッツ収容所はわたしたちに次のような問いかけをしているのではないでしょうか。わたしたちの心の奥底に、他の民族あるいは個人に対する偏見が無意識のうちに沈殿していないか。そしてその沈殿したものが呼び起こされ、思考停止状態になり、第二のヒットラーを出現させることはないのか。またルドルフ・ヘスやあの軍服の医師が、私たちにとって全く対岸の存在でありうるのか。そう思いながらアウシュヴィッツ収容所をあとにしました。
ワルシャワにむかう電車からは、草原で寝そべる牛や農家などが見えました。あのユダヤ人たちはどういう気持ちでこの景色を眺めたのかなと、ふと感傷的な思いが頭をよぎりました。しばらくして、暗闇の貨車のなかに詰め込まれて運ばれたことを思い出しました。
犠牲者国際記念碑のプレートには、つぎのように記されていました。
「ナチスが150万人の男、女、子ども―その大部分はユダヤ人である―を虐殺したこの場所が、人類にとって永遠に絶望の叫びと警告となるように」
1940年 - 1945年 アウシュヴィッツ - ビルケナウ
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予約投稿です。
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