これから3回にかけて、テクスト部分を紹介します(設問付きドキュメントは中断します)。
新しい体制の誕生
ローマへの行進
早すぎたイタリアの民主主義の危機
第一次大戦の戦勝国であるにもかかわらず、イタリアは領土的野心を満たすことができなかった。60万人以上の戦死者を出す一方で、イタリアにとっての「未回収の土地」を回収させる1915年の密約は、連合国によって遵守されなかった。多くのイタリア人にとって、それは「歪められた勝利」であり、ナショナリストのGabriele d’Annunzioやファシストによって活用されたテーマであった。かれらは傷心の在郷軍人、ファシスト党arditi、希望を絶たれた欲求不満の予備役の将校の中から支持者を募った。
しかし戦争は、経済的不均衡も増大させた。軍事関係の近代産業は、もはや出口を見いだせなかった。転用に失敗し、閉鎖に追い込まれるか人員整理をするかしかなかった。追い込まれた労働者は大規模なストライキを組織し、1920年には工場占拠の運動が広まり頂点に達した。同様に農民も、政府は1917年に農民に農地改革を約束したのであるが、まだ耕されていない土地を占拠した。
ファシストによる権力奪取
ファシストの運動は、イタリアを支配した動揺と混乱にたいするひとつの回答であり、暴力とパワーを賛美する「戦争の文化」を長引かせることである。1919年3月にムッソリーニは、右翼ナショナリスト、左翼アナルコ・サンディカリストそしてとりわけ在郷軍人を寄せ集めるための、最初のイタリア戦闘的Faisceaux
束を創った。ただちに彼は、恐怖を持続させる軍隊組織的な集団を組織した。ファシスト突撃隊squadristi黒シャツ隊とよばれるメンバーは、黒いシャツを着て棍棒を携帯した。
ムッソリーニは、産業家あるいは資本家に取り入るために自らのプログラムを修正し、これまでの革命的デマゴギーを放棄した。そして1921年11月に、国家ファシスト党を創設した。「不満分子のファシズム」に替わって「資産家のファシズム」になったのである。1922年10月28日、解散させられた軍隊と組織化が遅れているファシスト突撃隊squadristiがローマに向けて行進したとき、国王ビクトール・イマニュエル三世は、容易に対面するのを拒否したかった。産業界と軍部、それにムッソリーニをコントロールできると説得したリベラルな数人の助言に従い、国王は10月30日にムッソリーニを首相に任命した。
独裁の定着
1924年4月、精力的な選挙運動によって、ファシストは議席の4分3を獲得した。公然とファシスト体制を批判した社会主義者のMatteottiが6月に暗殺され、その過激化が明らかになった。1925年12月から、「fascistissimes法」による独裁体制づくりが遂行された。ムッソリーニ頭領は、行政権の全体を掌握したのである。言論・出版取締法が、政権批判の新聞の発行を禁じ、ファシスト以外の政党や労働組合を解散させた。行政機関、軍隊そして教職から、不穏分子が追放された。政治警察OVRAが、すべての反対者、とりわけ共産党員を逮捕するか国外に追放した。
体制の確立は、1929年2月11日に教皇との間に調印されたラテラノ協定とともに完成した。教皇ピウス11世はヴァチカン市の主権を獲得し、カトリックを公式の宗教として認めさせた。そのかわりムッソリーニは、カトリックとの和解を勝ち取った。意見の一致を獲得した。そのうえ1870年以来未解決であった「ローマ問題」* に決着をつけたムッソリーニは、自らの国際的な威信を大きく高めた。

ムッソリーニとガスパリ枢機卿によるラテラノ協定の調印(写真)
* 1870年のイタリア王国成立後、政府は時のローマ教皇ピウス9世に対してヴァチカンおよびラテラノ宮殿の占有を認めることと引き換えに政府に年額32万5千リラを支払うことを求めた。教皇庁側はカトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶したため、イタリア政府と教皇庁の関係は断絶し、ピウス9世と彼以降の教皇がヴァチカンとローマ市内の限られた区域以外に足を運ぶことはなくなった。
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