1.権力の合法的な奪取

ヴェルサイユ条約に反対する集会を知らせるナチスのポスター(1931年6月27日)
A. ワイマール共和政の困難性
革命と敗戦の結果成立したワイマール連邦共和政は、その誕生から不利な条件を背負っていた。ギオーム2世が退位すると、ドイツ社会民主党SPDは、1918年11月11日の休戦協定の前日、共和政の制定を宣言した。しかしその時から、ナショナリストの反対派は、「背中に一突き」* という主張を展開し、強制されたヴェルサイユ条約の責任を成立したばかりの共和政に押し付けた。士官および在郷軍人は、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPの突撃隊SAに加入した。そのうえ(社会民主党は)権力と提携し、1919年1月の「血の週」でスパルタクス団KPDを暴圧したことで、労働者の支持を失った。共産主義者は、ワイマール体制を擁護するすべての同盟を拒否し、それ以降最悪の事態のなかで活動することになる。
* 1918年の休戦協定以後、いく人かの軍人やナショナリストが、連合軍に対する降伏を早まり、軍と戦死者を裏切ったとして、民間人(特に社会民主党)を非難する主張。
さらに1923年には、戦費を負債に頼っていたドイツは、激しいインフレに襲われた。支出抑制のために歴代の政府は賠償金の支払いを中止しようと試みたが、フランス軍がこれに反発し1月にルール地方を占領する。賃金労働者の生活水準は急速に下落し、少額の金利および年金生活者の生活を破壊した。体制に反対するものは次第に決起しはじめた。たとえば国家社会主義労働党NSDAPの党首であるアドルフ・ヒットラーは、ミュンヘンでクーデタを試みたが失敗した。1925年の大統領選挙において選ばれたのは、王政主義者のヒンデンブルグであった。
しかしながらアメリカ合衆国の助力によって、支払うべき賠償金は減額された。そして外国資本の投資が、1929年までにめざましい復興を実現することを可能にした。ドイツ産業は、IG ファルベン [ 化学部門の独占体 ]のような大規模なトラストを形成し、都市は近代化した。1926年ドイツは国際連盟SDNに加盟し、1928年の総選挙では過激主義の政党の退潮がみられた。この繁栄のムードが、バウハウスに始まり、映画監督のフリッツ・ラングを経て、アインシュタインにいたる文化的および科学的開花を後押しした。
B. ナチスの合法的な独裁への道
この一時的な均衡は、1929年からの世界恐慌によって危うくなった。ドイツは借款と外国資本を失い、もはや工業生産を維持していくことができなくなった。失業者は、1931年には6百万人を超えた。全ての社会階層で国際資本主義にたいする憎悪が蓄積し、それに反ユダヤ主義が混じりあった。ワイマール連立与党への支持が減退するなかで、スパルタクス団KPDと国家社会主義ドイツ労働者党が力を強めた。
1925年、ヒットラーは「わが闘争」のなかで自説を述べた。そして親衛隊SSを創設することによって党を再編した。ナチスは、共産主義者にたいする盾として自らを任じ、街頭で彼らと戦った。1931年からヒットラーは、ナチズムの反資本主義部分を削除することを決意する。それはクルップ、ティッセン [ ともに鉄鋼業 ]、IGファルベンといった実業界の気を惹きつけるためであった。1932年の大統領選挙では、ヒンデンブルグが再選されたが、7月におこなわれた総選挙では、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPが37.3%の得票を得てドイツの第1党になった。一方左翼の方は、まだ分裂状態にあった。共産党の健闘(14.3%)を危惧した産業資本家と金融資本家は1933年1月30日に、ヒンデンブルグにヒットラーを首相に任命することを熱心に勧めた。
1933年2月27日、ヒットラーは国会議事堂を放火させ、スパルタクス団KPDを糾弾し、活動を禁じた。これは、政令によって翌日から個人の全ての自由な活動を禁止する口実であった。5月23日、ヒットラーは代議士に対して全権力を掌握することを求めた。社会党の代議士のみが拒否した。こうして合法的な独裁が誕生した。
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極右デモ人間の鎖で阻止(NHKニュース)
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