2.「大転換」Le grand tournant

強制収容所における強制労働。白海とバルチック海とを結ぶ運河の建設 1933年
A.
「階級の敵」の排除 1929年、最初の計画は、徹底した農業の集産化と工業化、スターリンが「大転換」と名づけた方針を押しつけるものであった。これから「プロレタリア独裁」によって、階級なき社会を打ち立てることが主題である。当時国内の労働者は、3百万人に満たなかった。そして農村はまだ、さまざまな階層をかかえていた。投機家nepmen、それに「有閑階級」あるいは「プチ・ブルジョア」と非難された人たちが市民的かつ社会的権利を奪われた。商人たちは、国営の協同組合に締め出された。
1930年1月党中央委員会は、裕福とみなされ、ブルジョア的精神に惹かれている農民という大まかな定義によって、富農koukaks という階級を解消した。したがって農村に住むほぼ550万人は、労働者の一団および政治警察であるゲーペーウー(チェ-カ-の後継組織)によって追放された。そして彼らの多くは、処刑されるか、労働キャンプに入れられるか、あるいはウラルやシベリアの強制収容所に送られた。1930年スターリンは、トラウマの予想を超えた広がりを前にして、このテロリズム的企てにブレーキをかけた。そしてその責任を、下部の活動家、彼が「功をあせった者」と呼んだ犠牲者に押し付けた。
B.
運動の強制的な集団化 「富農を告発するデモ dékoulakisation 」は、もっとも農民を活動的にさせる農村共同体を壊し、他の全ての者を麻痺状態にさせた。このデモが自発的な抵抗をつぶせば、農民のあいだに無気力を産み出す。すなわち収穫高が落ちこみ、家畜の大半は、1933年を待たずに衰弱することになる。1928年の生産水準を取り戻すには、1958年までかかるのである。その結果はすぐに、1932年と1933年の過酷な飢饉となってあらわれた。
集産化は、賃金労働者がはたらく国営農場であるソホーズsovkoze 、特に生産者組合であるコルホーズ kolkhoze をつくる計画によって進められた。体制は、1932年からいくつかの譲歩をする。コルホーズは余剰部分を市場へ売り出すことが可能となり、各農家は「わずかな」耕地を所有した。しかしコルホーズは実体性の薄い生産者組合のままであり、国家機関である機械トラックターセンターMTSが耕作と収穫を計画し、利用費を天引きした。農民も自分たちの耕地を優先させ集団的労働をおろそかにし、あるいは集団で都市へ逃れ、企業に安い労働力を提供した。
C.
計画経済と「全速力で工業化」 5ヵ年計画を推進する組織である国家計画委員会Gosplanは、達成すべき目標を決めた。第一次5ヵ年計画(1938年~1932年)は、重工業と公共設備の建設のために消費財を犠牲にした。第二次計画(1932年~1937年)は、UKK(ウラルの鉄鉱床およびクズバスの石炭鉱床)のような巨大コンビナートを建設し、化学工業(第二バクー油田)を開発した。この計画の推進は、生産のテンポを速めるスタハノフ運動 stahanovisme* そして戦闘的な労働者をモデルに仕立てた労働突撃隊 oudarniks に依拠した。1941年、軍備を中心に展開された第三次計画は、戦争のために中断した。
* 労働者の鑑とされたStahanovの名前に由来する言葉で、労働者に生産量の記録を競わせる運動。
当時都市の住民は、国内人口の33%を超えていた。ソビエト共和国連邦は、アメリカ合衆国、ドイツに次いで第3位の経済大国に登りつめた。しかし体制は質を犠牲にして量を優先させ、国民にたいするオルグと強制労働の上に、生産性本位の独裁を打ち立てた。
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他人が幸福でないこと・・を当然だと考える人がいます。
そう言う人は・・自分自身が幸福でないことには、いつも納得がいかないものです。
...
「なにも足さない。なにも引かない」、サントリー山崎の宣伝じゃないが・・・。
長妻昭厚生労働大臣が、労働政策審議会...
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