*これはフランスのLycée 1(高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第6節
イタリアにおけるファシズム<
最初のファシズム体制は、いかにしてヨーロッパに現れたか?>

新たなローマ帝国 1935年の黒シャツ隊の集会で、ローマ皇帝 Nerva (30-98)の像を前にしベニト・ムッソリーニ
新しい党の力の潜在的な台頭 1922年10月28日、武器を携えたおよそ3万人のかなりみすぼらしい集団が、彼らの首領であるベニト・ムッソリーニを革命によって権力の座につけようと、ローマに向けて行進した。これは1921年に結成された国家ファシスト国民党(PNF)* の、軍規と組織をもった民兵組織である黒シャツ隊のメンバーであった。PNFは自分たちのナショナリズムと軍国主義的綱領に社会主義的要求を組み入れた。いわば階級の垣根を外したようにである。この党は、一人の指導者によって体現された国家という新しい解釈にたって、国民の権利を守ると主張しながら、民主主義とたたかう。個人は、国民の利益を超えた公益の名のもとに、この指導者に従うことを受け入れなければならない。
戦争の勝利を横取りされ、社会騒乱に揺すぶられるイタリアは、ファシズムの拡張に都合の良い場を提供した。この運動に旧軍人が集まり、彼らはそこで国家の面目が救われるのを見る。ボルシェビキ革命を危惧する大地主や産業家には、労働者の党や労働組合に対する闘いの手段を提供した。それ故、1922年に国王のビクトール・エマニエル三世にムッソリーニを首相に任命する気にさせたのは、革命ではなく、保守が彼に与えた支持であった。
* Partito Nazionale fasciste この名は、19世紀の労働運動のfasci(連合)から来ている。ムッソリーニの活動家は、古代ローマの執政官が市民から託され、その地位の威厳を示す杖を束にしたfascesに彼を結びつけた。
独裁の強化 ムッソリーニは首相の地位を、独裁を補強するために利用した。反対派、とくに社会主義者にたいしては、自分の突撃隊squadre (分隊)*1 がおこなったテロ活動を奨励した。このsquadreはそれ以後、ムッソリーニの指導の下で国防義勇軍として再編された。1924年、ムッソリーニは選挙の方法についての変更を議会に押し付けた。相対的多数派であるだけで、議会の3分の2の議席を得るようにしたのである。ファシストは反対派を黙らせるために、選挙の不正を批判した社会主義者Giacomo Matteottiを暗殺した。そして政敵を徹底的に抑圧した。政治警察OVRA*2が1927年に創設された。1926年には、PNFが唯一党を宣言した。1928年以降は、選挙人は一つにまとめられた名簿*3 に記載されている候補者にしか投票できなくなった。首相の決定は、法律と同じ効力をもった。ムッソリーニはDuce(指導者)となり、形式的であれ君主制が維持されているにもかかわらず、これ以後何の制限もない独裁政治を断行していく。1929年にローマ教皇庁と結んだラテラノ条約*4は、カトリック教徒の間でムッソリーニ体制の人気を大いに高めた。
体制は、ファシストのプロパガンダとDuceへの敬愛を広めるため、マスメディアを最大限利用した。体制はまた個人の存在を、社会生活のあらゆる分野において支配することをめざしながら、その全体主義的な野望を明らかにしていった。こうしてイタリアは、民主主義の挫折を経験する、ヨーロッパで最初の国となった。
*1 その制服から、別名「黒シャツ隊」ともいう。軍隊の規律と組織をもつこの団体は、ムッソリーニの支配下に置かれる。ムッソリーニはこれを国防義勇軍に再編する。
*2 反ファッシズムの運動を監視し、弾圧する組織。1927年に創設。秘密警察の役割を果たす。
*3 全ての候補者が記載してあり、投票者は、まるごと受け入れるか、拒否するかしか選択はない。
*4 イタリアと教皇庁とのあいだで、1929年に締結された政教条約。これによって教皇は、1870年に失った教皇領の復活とイタリアへの統合を断念した(教皇の自治権はヴァチカンに限られる)。その見返りに、イタリアはヴァチカンにおける教皇の自治権を認め、カトリックをイタリアの国教とした。
帝国主義的な対外政策 ムッソリーニの対外政策は、イタリアの威信を取り戻し、地中海における新たなローマ帝国を建設することをめざすものであった。こうしてイタリア軍は1933年にエチオピアに侵略した。国際連盟がおこなった制裁、つづいてフランス、イギリスの抗議は、実効のないまま放置された。ムッソリーニは戦闘に毒ガスを使用し、エチオピアは1933年に降伏した。エチオピアはイタリアに併合され、イタリア国王は「エチオピア王」の称号を手にする。
同じ年のスペイン戦争の勃発は、地中海におけるイタリアの影響力を拡大する可能性を、ムッソリーニに提供するかに見えた。彼はナチスドイツと同盟を結び、フランコに対する軍事的援助をおこなった。この賭けは、ヨーロッパの民主主義に対するファシスト体制の優位を証明するものとなった。
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晴天の霹靂・・と言う言葉があります。
先週一週間は、まさにこの言葉がピッタリの日々でした・・。
まずは、24日・・水曜日。
昼間っか...