1933年3月、警察によって逮捕されたデュッセルドルフの労働者Heinrich Kipenheuerの写真。1933年春ごろ、暴力行為は日常茶飯事であった。暗殺者たちは殺人の動機を、次のように記している。「過日、自由を広めた廉により」ドイツ共産党の非合法新聞より。
組織された密告 1937年7月1日に逮捕され、ザクセンハウゼン強制収容所に収監されたマルチン・ニーメラー牧師*1 がおこなった礼拝式についての、密告者の報告の抜粋。この礼拝式は1937年1月30日に、ベルリン市ダーレム地区のAnnenkircheでおこなわれた。
ニーメラー牧師は説教の初めに、信じられないほどの無礼さで、この4年間について触れました。彼は信者の前で、本当の理由を言わないで、あらゆる種類の出来事を列挙しました。彼が列挙した出来事は、事情を知らないで訪れた人に大きな動揺を与えたと思います。
国の再生を記念する日* に、一人ひとりのドイツ人が満ち足りた気持ちで、誇りを感じながら総統の演説を聞いているときに、このN牧師が腐敗と恥辱の毒をばら撒いたことは恥ずべきことです。ニーメラーは、要約するとまず次のようなことを言いました。「今日、1月30日という日に、この4年間を振り返ってみると、喜びに満ちた年月ではなく悲しみと共にあった年月であったということに、私たちは気付くでしょう。この4年間に、なんの罪もない何千人もの人たちが、警察によって逮捕されることはなかったでしょうか?そしてそのうちの何人かは、強制収容所に勾留されることはなかったでしょうか?これが偉業だといえるでしょうか?」
*1 ドイツの神学者、ルター派牧師(1892-1984)。ナチスに反対し読み上げた詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」で有名。最初は保守派として知られ、アドルフ・ヒトラーの支持者だったが、告白教会の創立者の一人となりドイツプロテスタント教会のナチ化に強く反対するようになる。ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容される。命からがらホロコーストをまぬがれ収容所から生還する。
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
*2 国の再生を記念する日―ナチスが政権奪取した1933年1月30日を指す。
「水晶の夜」にたいする反応 Ulrich von Hassel*1 は、ナチズムに対する保守主義者のレジスタンスの中心人物である。ヒトラーに対するクーデタ計画に参加する。1938年11月25日、彼は自分の新聞に次のように書いている。
私は、ラート*2 の殺害に続く卑劣なユダヤ人迫害に、沈痛な思いを抱きながらこの記事を書いている。世界大戦以来、今回ほど世界のなかで信頼を失ったことはかってなかった。しかし私が本当に心配するのは、外国で生じる結果ではない。[・・・] 私の頭を覆う本当の杞憂は、国内の私たちの生活に関わることである。ひとつの体制が、完全で確実な方法で、こうしたことを行いうるということである。ゲッベルスにたいする信頼はそれほど大きくないのは確かである(国内には、ナチスの考えに導かれるままになった人びとがいるにもかかわらず)。それは、暴力が国民の中で渦巻いている本能的な怒りの爆発の結果であり、数時間後にはおさまったと言うのと同じくらい信頼されていないのである[・・・] 実際は、それは行政によって組織されたのであり、同じ時刻にドイツ各地で引き起されたユダヤ人大虐殺のことであることは疑う余地がない。
Ulrich von Hassel, Vom anderen Deutschland. Aus den nachgelassenen Tagebuchen
1938-1944, Zurich, Atlantis Verlag
*1 Ulrich von Hassel(1881-1944)ドイツの外交官。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画を立案・組織した密議に参加。1944年9月8日、Plotzensee監獄にて獄死。
*2 Ernst vom Rath ドイツを国外追放になったユダヤ人青年に、パリで暗殺された外交官。
テロへの「順応」 エッセイストであり歴史家でもあるSebstian Haffnerは、司法修習生であった1933年3月末ベルリンの最高裁判所の図書室で、突撃隊SAがユダヤ人の法学者を追い出しているのを目撃した。
ドアが激しく開けられ、茶色の制服を着た数人が、なだれ込むように入ってきた。そしてその中の明らかに責任者と思われる一人が、直立不動の姿勢で、部屋中に響き渡る声で叫んだ。「アーリア人でない者は、ただちにここから出て行かねばならない!」[・・・] 私は心臓が激しく鼓動するのを感じた。どうしたら尊厳を守れるというのか?動揺してはいけない!混乱してはいけない!私は偶然にも無意識のうちに、ひとつの言葉を見つけた。[・・・] 彼らがそこにいないかのように振舞うこと!
茶色の制服のひとりが、私の前に立った。
―君はアーリア人かね?
私は間をおかずに答えた。
―そうだ。
私の鼻を食い入るように見た後、制服は私から離れた。私は血が頬まで昇ってくるのを感じた。次の瞬間、恥辱と敗北感が襲ってきた。私は「そうだ」と答えた。それはよい。私はアーリア人なのだから。私は嘘をついたわけではない。ただ私はもっと大切な何かを相手に渡してしまったのだ。質問した男に、私がアーリア人であると馬鹿正直に答え、そのことに何の意味も考えなかったことは、なんという恥辱であろうか。安らぎを得るために、その権利を買ったと同じことだ。なんという恥しらずなことをやってしまったのだ!私は謀られたのだ。私は最初の試練に挫折した。私は深く傷ついた。
Sebastian Haffner, Histoire d’un Allemand : souvenirs 1914-1933
Pistes de travail 学習の足跡1.
国民のどのグループが、ナチスがおこなった迫害の対象になったか?ナチスはどのような手段に訴えたか? (写真「過日、自由を広めた廉により」、「テロへの『順応』」、「『水晶の夜』に対する反応」について)
2.
Sebastian Haffnerが、1933年に体験したことについて語った感情について説明せよ。この状況の下で、従順でない態度をとることは可能であったか、考えよ。 (「テロへの『順応』」について)
3.
ニーメラーがおこなった批判について、その特徴を示せ。 (「組織された密告」について)
4.
1939年以前のドイツにおけるレジスタンスの形態について調べよ?Ulrich von Hasselについて、あなたはどう考えるか? (「『水晶の夜』に対する反応」について)
スポンサーサイト