ミシュレはどんな人?

まず中公文庫の「フランス革命史」にそって、ジュール・ミシュレはどういう人だったのかを見ていきたいと思います。
ジュール・ミシュレ Jules Micheletは1798年、つまりフランス革命が始まって9年後、ナポレオンが実質的な権力をにぎるブリュメール18日のクーデタの前年にパリで生まれました。幼いジュールは印刷工であった父親の助手をしながら、ナポレオンに反発する父が語る革命時代の良さに耳を傾けました。「本をつくる前に私は物的に本をこしらえていた。私は思想を集める前に活字を集めていた」と後に回顧しています。
1812年の印刷統制令によって印刷所が廃業、困窮がミシュレ一家を襲います。祖父や叔母たちが、幼いときから神童ぶりを発揮するジュールを学校に通わせます。1814年に母を失ったジュールは、その強靱な意志力で悲しみを乗り越え、意気消沈することがなかったといいます。
18歳には、全国学力コンクールにおいて、国語およびラテン語で三つの賞を獲得しました。さらに19歳でバカロレアに合格、20歳で学士号を、21歳で文学博士となり、23歳で大学教授資格試験に第3位で合格、ただちに歴史科の教授に任命されました。多少の余裕ができたミシュレは、古典の知識をさらに充実させ、近代思想にも親しみました。
26歳で時結婚、二人の子どもをもうけたミシュレは、勉強に没頭するあまり家庭を顧みなくなります。15年後に妻が結核でなくなると、良心の呵責に悩んだ彼は、妻の遺骸を発掘し対面した上で、ふたたび改葬する行動をとります。また息子シャルルが身を持ち崩し、33歳で夭折します。
ミシュレの日常生活は、必ず日の出前に起床、十時に就寝。これは晩年まで続きます。講義に出かける以外は勉強一本でした。社交は好まず、仕事以外の外出はほとんどなかったといいます。
1830年の七月革命に啓示を受け、フランスの使命を明らかにすることこそ自分の転職ではないかと思い至ったミシュレは、それまで研究していたローマ史を中断して、「フランス史」の構想を練ります。それは国家の歴史ではなく、そこに生きたフランス人民の歴史でした。構想に十分な時間をかけ、ひとたび執筆に取りかかると一気に書き上げました。1833年には「フランス史」の第一巻、第二巻を出版、そして67年に第十七巻が完成します。そして「十九世紀史」(三巻)を死の直前(1874年)に書き上げます。26冊をおよそ40年かけて書いたことになります。
1841年頃からフランス革命に関する史料を集めていたミシュレは、第六巻(ルイ11世)まで書き上げたあと第七巻(ルネッサンス)にとりかからず、「フランス革命史」(第二十一巻、6冊)を1847年から6年かけて書き上げます。そこには、当時カトリックの教育への干渉の強まりに反発し、カトリック反動に対する抵抗運動を始めた、戦闘的共和主義者、人民主義者としてのミシュレを見いだすことができます。
1848年に講義内容を理由に講義停止処分を受けたミシュレは、二月革命によってこの処分を解かれ、革命後の総選挙において、ミシュレはアルデンヌ県から立候補することを勧められます。ミシュレは固持し、研究活動の道を選びました。
愛読者であったアテナイスと再婚したミシュレは、妻の協力もあり、いっそう執筆に専念します。1870年、彼は普仏戦争でフランスがメッスで降伏した報に接し卒中の発作を起こし、さらにパリ・コミューンの挫折を知り再び発作を起こしました。以後三年の引退静養生活を送ったあと、1974年2月9日にプロバンスのイエールで75歳6ヶ月の生涯を閉じました。遺骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。
「私は、パリの二枚の敷石のあいだに生えた雑草のように成長した。しかし、この草はアルプスの草のように、その養液を失わなかった」というミシュレの言葉は、逆境のなかで育ったにもかかわらず、その強靱な意志力とたゆまぬ努力によって、感性あふれる歴史を語り続けた、この大歴史家の生涯を言い表しています。
スポンサーサイト
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/275-8596d858