6月10日、第三身分の最後の勧告。第三身分は、Communes(市町村)議会を名乗った。6月17日、Communes(市町村)議会は、国民議会という正式名称をもった。そして課税の権利を手にする。国王が議場を閉鎖させる。1789年6月20日の球技場(ジュー・ドゥ・ポーム)における議会。
6月10日、シエイエスは議場に入りながら次のように言った。「錨綱を断ち切ろう。その時が来た」。その時から革命の大船が、嵐であろうと穏やかな時であろうと、遅れがちになるが、しかし決して止まることなく、未来に帆を向け進むのである。
この卓越した理論家は、前もって極めて正確に計算尽くしていた。その上で三部会の議員として、ここに姿を見せたのである。彼はやるべきことを語り、そして時機を捉えてそれを実行した。
何ごとにも時機というものがある。今日は6月10日、早くもなく遅くもない時機である。早すぎると、特権身分が道徳的感性を失っていることを、国民は十分に理解しないだろう。彼らの不誠実のすべてが国民の前に明らかになるには、ひと月は必要である。遅すぎると、二つのことが懸念される。ひとつは、悲惨の極限まで追いつめられた人民が、ひと切れのパンと引き替えに自由を諦めかねない。もうひとつは、特権身分が、税の免除を放棄したままで、幕を下ろすことはしないということである。でなければ、貴族が聖職者と結託して、(誰かが彼らに吹き込んだように)上位の議会を形成するかもしれない。このような議会は、今日では王政にとって都合の良い装置である以外なんの役割も果たさないが、1789年にはそれ自身でひとつの権力になったであろう。当時王国の半分あるいは三分の二の領地を所有する者たちが、この議会に結集することになる。その財力、領地の農民、おびただしい数の使用人をもってすれば、農村に影響力を及ぼすに十分な手段を持つのである。
オランダでは、特権二身分が驚嘆すべき協定を結び、人民を巻き込み、オーストラリア軍を追い出し、皇帝から所有地を取り上げたのを見たばかりである。
1789年6月10日の水曜日、シエイエスは、聖職者と貴族に最後の通告をし、一時間後に点呼をおこない、出頭しない者に対しては欠席が宣告されると警告しようと提案した。
法的な形式をとったこの通告は、まさに不意の一撃であった。Communes(市町村)議会の議員たちは、自分たちに平等を認めなかった連中に対して優位な立場に、いわば裁判官の立場に立ったのである。
これは老巧な策だ。危険すぎて、時間稼ぎもできなくなった訳である。それに大胆でもある。パリのような都市では、人民が丸ごと背後に控えていて、議員たちは何の恐れもないのだ、それゆえ彼らは強力であり、危険を犯すことなく前進するのだと、人びとは繰り返し語ったものだ。この一撃の後は、すべてはうまくいき、この命題は支持されるであろう。たしかにこの一歩を踏み出した人びとは、大きな力を感じていたにちがいない。しかしその力はまったく組織化されてはいない。人民は軍人ではなかった。それは後に軍人になるのであるが。軍隊がヴェルサイユを包囲した。その一部はドイツ人兵士やスイス人兵士である(15連隊のうち少なくとも9連隊)。砲列が、議場前に敷かれた。国民の考えを定式化した卓越した理論家、そしてその定式を受け入れた議会の称賛すべきところは、それには目もくれないで論理を信じ、その信念に基づいて前進したことである。
宮廷はといえば、まったくの優柔不断に陥り、何に手をつけたらいいかわからず、尊大な態度を装い傍観するだけであった。二度にわたって、国王はCommunes(市町村)議会の議長との面会を回避した。狩りに出かけたということになっているが、あるいは最近の王太子の死に打ち拉がれていたのかも知れない。しかし国王は連日、高位聖職者、貴族、高等法院の連中の訪問を受けたことは周知の事実である。不安になり始めた彼らは、国王に泣きついてきたのである。宮廷は彼らの話を聞きながら、彼らの不安を値踏みし、そこにつけ込もうと考えた。だが、これらの連中につきまとわれ、ある意味で彼らの囚われ人となった国王が、おそらくは丸ごと彼らに取り込まれ、国王とは、結局特権身分の頂点に立つ特権者であることを、自らがますます明瞭に示したことは明らかであった。状況は単純明快となり、わかり易くなった。すなわち一方の側の特権、そしてもう一方の側の権利という二つのことに尽きるのである。
議会は率直に語りかけた。そして聖職者身分に働きかけ、その一部が合流するのを待った。司祭たちは、自分を人民だと意識した。そして本来の自分の席である人民の側へ移ることを望んだ。だが、教会における従属の習慣、高位聖職者の策略や権威、威圧的な物言いといったものが、それに宮廷や王妃の働きかけも加わって、司祭たちを引き留めようとするのである。まず3名の司祭が、意を決して席を移した。それに7人が続き、最終的には18名となったのである。第三身分がなしたこの見事な獲得に対し、宮廷は大いなる嘲笑を浴びせた。

シエイエス
続く
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