結局のところ、議会の気がかりは国民の食料であった。行政が他の権力と同様に弱体化しているので、唯一正常な機能を果たしている立法府が、行政府の機能に介入せざるを得ないのである。議会は食糧問題を解明すると思われる情報を、議会の食料委員会にも提供することを要求した。この情報は、国王自ら聖職者の議員団に提供したものだった。しかしその時の情報については、国王はもう提供するつもりはなかった。
もっとも驚いたのは、ネッケルであった。この男は無邪気にも、自分が世の中を導いているのだと信じていた。しかし世の中は、彼なしで進んでいたのである。ネッケルは常に、この生まれて間もない議会を我が娘のように、あるいは後見人が必要な孤児のように見守ってきた。国王にも、素直で、聞き分けがよい議会になるでしょうと答えていた。それが突然、後見人である自分に相談なく独力で歩き出し、さらに先に進んで、深く考えもせず古い障壁を跨いだのだ。茫然自失の状態で引きこもっていたネッケルは、二人の助言者の訪問を受けた。一人は王政主義者からの、もう一人は共和主義者からの助言であったが、どちらも同じ内容であった。王政主義者の方は知事のベルトラン・ドゥ・モルヴィルで、情熱家ではあったが偏狭な考えの持ち主の、旧体制の知事であった。共和主義者の方はデュロヴレイといい、1782年に国王がジュネーヴから追放した民主主義者の一人であった。
この深刻な危機の中、これほどまでにフランスに関心を持ち、意を決して助言をしにやってきたこの外国人について知っておく必要があるだろう。デュロヴレイはイギリスに住み、イギリスから年金を貰い、人情味に富み道徳心の強いイギリス人となっていたが、しばらくして亡命家のリーダーとなった。それまでは、ジュネーヴ人の小さなサークルに属していた。われわれにとって残念なのは、このサークルがミラボーを籠絡したことである。イギリスは、フランスの自由を標榜する主要な組織を援助するように見えた。それまでイギリスにあまり好感を抱いていなかったこの偉大な男は、この自称自由の殉教者の元共和主義者たちに取り込まれてしまった。デュロヴレイ家とデュモン家の人びと、それに疲れを知らぬ凡庸な物書きたちが常にミラボーの側にいて、彼の怠惰な生活に手を貸した。ミラボーはすでに病を得ていたが、彼の行動がますます病状を悪化させた。ミラボーは夜の活動で疲れ切り、昼は何もできなかった。朝になると議会や諸課題に思いを巡らし、思索に耽った。あるいは側に置いてある、ジュネーヴ人が書いたイギリスの思想についての本を何気なく手にして、自分の才能にまかせて書き込みをした。このようにミラボーの人の良さと無頓着な性格が過ぎて、ときには新聞に載った彼の感動的な言葉さえも、ジュネーヴ人が絶えず彼に手渡す原稿の引き写しに過ぎないではないかということになるのである。
デュロヴレイはネッケルとは少しも関わりをもたなかったが、この重大な情勢の下で、非公式の相談役を買って出た。
デュロヴレイが主張したのは、ベルトラン・ドゥ・モルヴィルと同様に、国王が議会の政令を無効にし、国民議会という名称を議会から奪い、三部会の合同を命じ、自ら「フランスの臨時の立法府」を宣言し、Communes(市町村)議会が権限なしにおこなったことを、国王の権限でおこなうということであった。ベルトランは、この一撃の後に残るのは当然、議会の解散しかないと思っている。デュロヴレイは、国王の大権の下に破砕され、屈服させられた議会は、法を作成する機関としての限られた機能を甘受するだろうと主張した。
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