6月25日、選挙人集会。フランス衛兵隊の動き。パレ・ロワイヤルの喧噪。オルレアン派の陰謀。6月27日、国王、諸身分の合同を命じる。6月30日、人民がフランス衛兵を救出。宮廷、戦争の準備をする。パリは武装を欲する。1789年7月11日、ネッケルの更迭。
それにしても奇妙な情勢である。それが一時的であることは明らかであるが。議会は従わず、しかし国王は何も撤回しない。
国王はネッケルを呼び戻した。しかし議会にたいしては軍隊に包囲させ、まるで囚人のように扱った。もちろん、聴衆は議場から閉め出した。正門は閉まったままで、議会は小さな門から入り、非公開で討議した。
議会は抗議したが、それは弱々しく気力を欠いた。23日の抵抗で、力を使い果たしたように見えた。
パリも同様に活力を失った。
パリは、自分たちの議員が牢獄のなかで法律をつくるのを見たくはなかったのである。
24日、注目すべき興奮がわき起こった。
25日には、選挙人、民衆、兵士たちが、三様に興奮を爆発させた。革命の本部がパリに置かれたのである。
選挙人たちは選挙の後も、自分たちが選んだ議員たちの知識を補うために集まろうと約束していた。大臣が選挙人集会の許可を禁じたにもかかわらず。23日のクーデターが、彼らを先に進ませた。彼らもまた、彼らのクーデターをおこなったのである。そして25日に、自分たちの意志でドーフィーヌ通りに集まった。仕出し屋のみすぼらしい一室が、ちょうど結婚式の最中であったが、場所を空けてパリの選挙人集会を迎え入れた。彼らにとってのジュー・ドゥ・ポーム(球技場)になったのである。
ここパリでは、選挙人の執行機関によって、国民議会を支持する誓約が採択された。選挙人のひとりチュリオは、市庁舎のサン・ジャン大広間に場所を移すことを勧めた。市庁舎では、あえて彼らを拒もうとはしなかった。これらの選挙人は大部分が金持ちで、有力なブルジョアであった。そしてそのなかには貴族も多く含まれていた。しかし彼らの中には、熱狂な指導者がいた。まず熱烈な革命家で、特異な神秘主義の傾向をもつ二人が挙げられる。一人はフォーシェ神父で、雄弁で剛胆な人である。もう一人は、彼の友人であるボヌヴィル(シェークスピアの翻訳家)である。13世紀なら、二人とも確実に、異端者として火あぶりになっていたであろう。18世紀においては、二人は人並みかそれ以上に抵抗の指導性を発揮した。しかし人びとは、ブルジョアの選挙人集会をあまりあてにはしていなかったようである。ボヌヴィルは6月6日、パリが武装することを提起した。これが、「武器を取れ!」と叫んだ最初となる。
フォーシェ、ボヌヴィル、ベルトリオ、過激なジャーナリストであるカーラは、まず国民議会において最初になされるべきであったであろう大胆な動議を出した。その1、市民衛兵[の創設]。その2、毎年公選される真のコミューンを近日組織化すること。その3、軍隊の遠隔地への移動、議会の自由の保障、そして23日のクーデターの撤回を求める上奏を、国王にたいしておこなうこと。
続く
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