朝の早い時間、ヴェルサイユの議会の扉の前に若者たちがいた。そこで彼らが目にしたものは、寒々とした光景ばかりである。兵士の反抗、破られた監獄、ヴェルサイユにいるとどれも緊迫した事態に感じられる。ミラボーはこの問題には触れず、パリ市民に節度をもたせるためにひとつの上奏文を書いた。人びとは、これは国王にのみに関係する問題であり、国王に寛大な措置を嘆願するしかないことを表明するという考えに落ち着いた(議会にとりなしを求めようとする者を納得させることにはならない)。
これが7月1日のことである。国王は2日、もし有罪の者が監獄に戻るならば、恩赦を与える用意があると、議会ではなくパリ大司教に充てて書いた。民衆はこの約束はかなり怪しいものだと見て、パリ市にそして選挙人のところに、信じるに足るものを求めに行った。選挙人は、しばらく躊躇していた。しかし民衆の要請は執拗で、人数も要請のたびに増えていった。夜中の1時、選挙人は、明日ヴェルサイユへ行き、恩赦が得られない限り帰ってこないと約束した。解放された兵士たちは、彼らの約束を信じて自ら監獄へ戻り、やがて釈放された。
これで少しも平和とはいえないのである。戦争がパリを包囲している。外人部隊の全てがパリに到着した。この外人部隊を指揮するために、前時代の王政のヘラクレスとアキレスが呼び出された。まず老元帥ドゥ・ブログリであり、そして王妃が、元ウイーン大使であった信頼するブルトゥイユを召喚した。この男は元来ペンの男であるが、その騒々しさと空威張りで、剣の男に値する。「彼の野太い声からは、活力を感じる。そして床を踏みつけながら大きな音を立てて歩くのだ。まるで地中から軍隊を呼び出そうとしているかのように」。
こうした戦争の道具立ての全てが、ついに議会の目を覚まさせた。すでに27日に、平和のための上奏文が聞き届けられなかったことを察知していたミラボーは、軍隊を遠ざけるための新たな上奏文を提案した。調和の取れた、響きの良い、過度に国王にへつらうことないこの文章は、議会の高い評価を得た。ただしその最良の部分である市民衛兵創設の要求のみが取り除かれた。
パリの選挙人が最初にこの要求を出したのであるが、議会によって退けられたのである。7月10日、彼らは断固として、ふたたび要求した。
カーラはシエイエス風の極めて抽象的な論文の中で、不可侵の権利としてコミューンの権利を提起した。そしてそれは「君主の権利以前にさえ存在するもの」であり、その権利はとりわけ自己防衛の権利を含むと彼は述べている。ボンヌヴィルは、自分の代わりに友人フォーシェの名で、それを実行に移すこと、そしていわゆる市町村の組織体を「暫定的に」保障するコミューンの設置について考えることを求めた。さらにシャルトンは、「パリ60区が新たに結集すること」、その決定を国民議会に伝えること、王国の他の大都市と良好な関係を築くことを望んだ。
これらの大胆な発議はすべて市庁舎のサン・ジャンの大広間において、大勢の聴衆の立会いの下におこなわれた。パリは自らつくりあげたこの権力の下に身を寄せ合っているように見える。パリは、他の何者も当てにしない。パリは自らの権力に基づいて、自らを組織し、武装し、自身で安全を保障する秩序をつくりあげることを望んだ。
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