
バスティーユ城塞
難攻不落のバスティーユ。バスティーユ攻撃は人民の意志。バスティーユに対する人民の憎悪。バスティーユ奪取を知った世界の歓喜。―アンヴァリッド(廃兵院)での銃の略奪。防御を固めるバスティーユ。バスティーユに降伏を促すチュリオ。無益に終わった選挙人の数度にわたる代表団派遣。最後の攻撃、エリーとユラン。遅延のおそれ。裏切られたと思った人民が、市長と選挙人を脅す。市庁舎における勝利者たち。バスティーユはいかに降伏したか。司令官の死。死刑に処せられた捕虜。恩赦を受けた捕虜。人民の寛大さ。
組織された政府、国王、大臣たち、将軍、軍隊のいるヴェルサイユにあるのは、躊躇、不信、不安だけである。まさに道徳的混迷が極まった状況にある。
大混乱の中にあって、もはやいかなる法的な権威も存在せず、明らかに無秩序が支配していたパリは、7月14日を迎えた。この道徳的に最も偉大な秩序、すなわち精神の一体性を手にした日を。
7月13日には自らを守ることしか頭になかったパリは、14日になると攻撃に出た。
13日の夜には、まだ迷いがあった。朝になると、一片の迷いもなかった。夜は騒擾が各地で起こり、抑えがたい怒りに満ちていた。朝を迎えると澄み渡り、荘厳なほどの平穏が支配していた。
太陽とともに、理性がパリを照らし始め、人びとは皆、同じ光を見た。精神のなかに一条の光が射し込み、そしてひとつの声が各々の心に命じた。「行け、そしてバスティーユを奪うのだ!」
それは不可能であり、途方もないことで、口にするのもためらうほどである。にもかかわらず、皆はそれを信じた。そしてそれは成し遂げられたのである。
バスティーユは古い要塞であったが、それでもなお難攻不落であった。多数の大砲で数日間攻撃しない限り、攻略できない。人びとはこの急場に臨んで、時間もなく、整然と攻囲する能力も持ってはいなかった。仮に攻囲できたとしても、バスティーユには援軍が駆けつけて来るまでの食料は充分にあったし、弾薬も大量に有していたので、なんの不安もないのである。バスティーユの城壁は、頂上で3.25m、下部は10mから13mの厚さがある。長時間砲弾を撃ち込んだとしても、びくともしない。そして砲列がひとたび火を噴けば、砲弾はパリめがけてサン・タントワーヌまで届き、マレーやサン・タントワーヌ街のすべてを破壊できるのである。塔は狭い十字型や銃眼が穿たれており、鉄格子が二重、三重に覆っている。守備隊は危険に身をさらすことなく、攻撃する者を情け容赦なく殺戮することができる。
バスティーユの攻撃は、道理からは全くありえない。それは、信念が命ずる行為なのである。
呼びかけた者は誰もいない。しかし誰もがそう考え、そして誰もがそのように行動したのである。道路や河岸を走り、橋を渡り、大通りに出て、群集は他の群集に叫んだ。「バスティーユに行こう!バスティーユだ!」。早鐘の轟音に混じって「バスティーユへ!」という叫びが、パリ中に満ちた。
繰り返すが、けしかけた者は誰もいない。パレ・ロワイヤルの雄弁家たちは追放者のリストをつくり、王妃、ポリニャック夫人、アルトワ伯、市長のフレッセル、その他の者を死刑にするかどうかを論じることで時間を潰していた。バスティーユの勝利者の名前の中には、こうした提案好きな者など一人もいなかった。パレ・ロワイヤルは、もはや出撃拠点ではなかった。そして勝利者が戦利品とともに捕虜を引き連れてきたのも、パレ・ロワイヤルではない。
市庁舎に陣取る選挙人たちにいたっては、攻撃する考えなどさらさらなかった。それどころか、攻撃を食い止めるため、またバスティーユが人民をたやすく虐殺するのを未然に防ぐために、もし大砲を引っ込めるならば攻撃しないと司令官に約束までしたのである。選挙人たちはそのことを非難されたが、裏切った訳ではなかった。信念を持ちきれなかったのである。
誰が信念を持っていたか?自らの信念を貫くために、献身的であり勇気を持った者である。それは誰か?人民であり、全ての人々である。
続く
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