いよいよ統一地方選挙後半が明日おこなわれます(私はフランス在住ですので、残念ながら国政選挙しか主権を行使できません)。この機会に、世界史の中での我々の先輩が、どのようにして主権を獲得していったか、その端緒である1789年の選挙(ミシュレの「仏蘭西革命史」(拙訳を掲載中)第1巻第1章から抜粋)を一緒に見ていきましょう。

陳情書を作成する選挙人たち(想像図)
すこし解説をしますと、特にアメリカの独立戦争への加担にともなう戦費増大等が、フランス王国の財政を逼迫します。国民にこれ以上の増税を押しつけることが難しいと思った政府は、僧侶・貴族の特権身分から免税特権を取り上げようとします。抵抗する特権身分は、過去の招集されたことのある全国三部会(身分別の議会)の開催を求めます。こうして1789年、フランス、いや世界で最初の全国規模での議会選挙がおこなわれました。
1789年の選挙
全ての人民が、選挙人を選出し、そして自分たちの不満や要求を陳情書に書くように求められた。人民の無知が当てにされたのである。変わることのない人民の本能、すなわち揺るぐことなく、決して異議を挟まない人民に拠り所を求めたのである。
1789年の全国三部会の招集は、全ての人民に自らの権利を行使することを求めた。少なくとも、自分たちの不満、願望を伝えること、そして選挙人を選ぶことができた。「選挙のためにみんな集まろう。みんなの不満を届けよう」という言葉を、幾時代かを経て初めて人々が耳にしてからというもの、地震のように深層に生起した震動が、大規模に地面を揺るがせた。外部との接触が極めて少なく、ひっそりとした辺鄙な地域にいたるまで、民衆はこの言葉に胸をときめかせた。
一方で国の徴税人が、他方で封建領主が辛苦を押しつけながら、いかに人民を無能にするかを争ってきたように思える。王制は、人民から公共の生活を奪い、公共の事業によってなされていた教育を奪った。教師役を押しつけられた聖職者は、とっくの昔から人民に教えることをやめていた。彼らは、人民が無能で、押し黙って、話す言葉ももたず、考えることもしないためには何でもしたであろう。そして今は、人民にこう言うのである。「さあ、立ち上がって、一歩を踏み出し、話したまえ」と。
支配層は、この無能を当てにした。当てにしすぎるほどであった。これを大運動にしようなどとは、つゆほどにも思わなかった。彼らはただ、大多数の無気力な国民を厳かに登場させることによって、特権を持つものに一泡吹かせようと考えたのである。
結果は、予測をことごとく裏切った。あまり心構えができていない人びとは、直感的にきわめて手堅い選択をしたのである。選挙への呼びかけを耳にしたとき、そして自らの権利について知ったとき、彼らは、自分がいかに知るべきことを知らないかということを知った。この500万ないし600万の国民が参加するというけたはずれな社会運動においては、選挙の手続きについての無知から、とりわけその大部分は書くことができないという理由によって、躊躇する人々もいた。しかし彼らは話すことはできた。彼らは自分の領主の目前で、いつもの丁重さを忘れず、謙虚さを保ちながらも、信頼でき、確固とした信念をもった議員を指名すると思われる選挙人の名前を口にすることができたのである。
都市の人々はもう少し心構えができており、感嘆に値する熱意と、自らの権利について旺盛な意識を示した。それは選挙における手際よさ、確かさに現れていた。それによって多くの未経験の人々が、政治への第一歩を踏み出したのである。それは、自分たちの不平を書き留める陳情書が、どれも一様であることにも現れていた。この思いもかけない、そして堂々とした陳情内容の一致は、人々の願いに、誰も抑えることができない力を与えた。これらの不平は、どれほどの長きにわたって、人々の胸の中に抱き続けられていたのであろうか!それはどれほど書いても、書き尽くされることはない。我々の都市のある地区では、ほとんど法律のようなものを含む陳情書の作成が、夜中の0時に始まり3時にやっと完成した。
王国でもっとも啓蒙のすすんだパリでは、選挙について他より厳しい条件を課せられたのである。特例によって、第一次投票に招集されたのは全納税者ではなく、6リーブルの税金を納めた者のみであった。パリは軍隊で埋め尽くされた。通りにはパトロール隊が配置され、すべての投票場には兵士が取り囲んでいる。通りでは、実弾を装填した武器が、群衆に向けられていた。
この無意味な示威行動を前にして、選挙人は断固たる決意を示した。集合するとすぐさま、国王が指名した議長を解任した。60地区のうち、国王の指名した議長を再任したのは、わずか3地区のみであった。この3地区も、再任した議長に、選ばれた者として議長の責を果たすよう宣誓させた。この重大な措置は、これが国民主権としての最初の行為であった。そしていま勝ち取るものといえば、それは国民主権であり、打ち立てるべきものは権利であった。国家の財政や改革は、後回しである。
宮廷はこの決定に驚き、その毅然とした態度に狼狽し、こうしてまったく新しい2万5千人もの第一次選挙人が、初めて政治の世界に足を踏み入れたことに驚愕した。混乱はいっさい起こらなかった。教会でおこなわれた集会は、選挙人たちが果たした勇敢で崇高な行為にたいする感動で満ちた。もっとも大胆な措置である、国王が指名した議長の解任は、静寂のなか抗議の声もなく、権利の意識から生まれる揺るぎない率直さをともなっておこなわれたのである。

フランス中部のIndre県にあるMéobecq市で作成された陳情書
1789年の選挙は、真にフランス人民を政治的に覚醒させ、開催された全国三部会(身分別に決議がなされ、その結果聖職者と貴族の特権二身分に都合がよい決議となる)を人民主権の議会へ変身させました。すなわちフランス革命の端緒を開いたのです。
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