
バスティーユ全景
バスティーユにも、朝から大勢の群衆が詰め、武器を渡せと叫んでいました。10時頃、市庁舎から来た代表団が、中に入ることを許されました。司令官のドゥ・ローネーは、代表団の、塔の上の大砲を引っ込めるという要求を快く受け入れ、昼食を一緒にすることを勧めました。
代表団が門外に出たと同時に、国民議会の議員であるチェリオが制止を振り切って中に入ってきました。彼は司令官に、人民の名の下に、バスティーユの明け渡しを勧告しに来たと言い、塔の上の大砲が実際に引っ込められたか確かめるために、屋上まで登っていきます。大砲には覆いがしてあるのを確認して、塔の上から顔を出し民衆から歓声と拍手を受けました。しかし民衆は、チェリオが市庁舎に報告に行こうとするのを認めませんでした。
斧を手にした一人の男が最初の跳ね橋に登り、飛んでくる弾の下で鎖を断ち切り、橋を落としました。群衆が橋を渡り中庭まで進むと、塔の上と下方の銃眼から同時に銃撃が始まり、多くの民衆が命を落としました。負傷者が市庁舎に運び込まれたのを見た選挙人委員会は、降伏を勧告する二度目の代表団を送りました。太鼓を叩き、旗を掲げた代表団が中庭にはいると、民衆は銃撃を止め、塔を守るフランス衛兵は白い旗を掲げ、銃を逆さにしました。しかしスイス人兵士は銃撃を止めず、代表団の傍らで、何人もが倒れました。殺人でしかないこの光景の前に、まだ戦闘に加わらないでいる民衆のあいだに怒りが増大しました。
そして二つの隊が組織されました。ひとつは労働者と市民の隊で、英雄的な気力に満ちた青年ユランが隊長となりました。もうひとつは、フランス衛兵からなる隊で、王妃付き歩兵連隊の臨時士官であるエリーが率いました。スイス人兵は、闘わない城側のフランス衛兵から銃を奪い銃撃を続けました。4時になると、下士官たちがドゥ・ローネーに戦闘を終了させるように懇願しました。ドゥ・ローネーは、大砲の導火線を手にして、135個の火薬の詰まった樽に火をつけようとしました。それはパリの3分の1を破壊する量でした。下士官に阻止されたドゥ・ローネーは、自殺しようと剣を手にしましたが、その剣ももぎ取られました。
ドゥ・ローネーは正気を失って、命令を下すことができなくなりました。交渉の必要を悟ったスイス人兵の隊長は、軍人の名誉とともに退出することを求めたメッセージを書きました。それは拒否されましたが、ユランとエリーが命の保証をしました。83人を殺し、88人に負傷を負わせたスイス人兵は、囚人用の野良着を着て脱出しました。
人々は独房へ走り、囚人たちを解放しました。独房の扉を壊し、抱きかかえても、囚人たちは何ごとが起こったのかと驚くばかりでした。一人の老人は、「ルイ15世国王はお元気でおられるか」と尋ねました。
バスティーユは過酷で劣悪な牢獄として、人々の憎悪の的になっていました。それには、28年間収監されていた囚人ラチュードの手紙を偶然に拾った、一人の女性が大きく関わっていました。ルグロ夫人は彼の無実を確信し、釈放のために奔走しました。人々はそれによって、国王の封印状一つで裁判も受けず投獄された囚人の運命と牢獄の過酷で劣悪な実態を知ることになります。ルイ16世も世論に勝てず、1784年に釈放を命じました。バスティーユと専制政治は、ヨーロッパの全ての言語で同意語でした。ヨーロッパ中の国民が、バスティーユが破壊されたと知って、自分が解放されたように歓喜の声をあげたのです。

チュリオ ドゥ・ローネー
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