連合国はいかにして戦争の流れを変えることに成功したか?
1942年の転換 1942年1月1日、ワシントン会議の一環として集まった26か国の代表は、1941年8月にチャーチルとルーズヴェルトとが作成した大西洋憲章に調印した。憲章は連合国の戦争目標を決めた。すなわちナチス体制の根絶および民主主義の原理と民族の自決権に立脚した新しい世界秩序の確立である。アメリカの戦争遂行の機構は、1942年1月6日の
勝利のプログラムの開始とともに始動している。
1942年6月のミッドウェー海戦においてアメリカが勝利を収め、日本の拡張にストップがかかった。エジプトでは、1942年10月にイギリスの将軍であるモントゴメリーが反撃に出て、エル・アラメインのアフリカ軍団は潰走した。1942年11月8日、連合軍は北アフリカに上陸した(トーチ作戦)。東部戦線では、ソ連軍がスターリングラードの戦い(1942年2月-1943年2月)において勝利した。パウルス司令官の降伏は、ドイツ国防軍の無敗の栄光に終わりを告げた。
ヨーロッパの開放 1943年4月、北アフリカの枢軸軍が一掃されたので、1943年7月10日、連合軍はシシリアに上陸した。失脚し軟禁されたムッソリーニは、ドイツのゲリラに救出され、北イタリアに亡命し、そこで
サロ共和国を樹立した。ローマが解放されたのは、1944年6月4日になってからであり、他のイタリア領土は1945年春である。
1944年6月6日、アメリカのドワイト・アイゼンハワー将軍の指揮の下に、アメリカ、カナダ、イギリスの5師団が、ノルマンディーに上陸。フランス領土に新たな戦線を築き、段階的な解放を開始した。東部戦線では、1943年7月にクルスクにおいて、最も大規模な戦車戦を展開し、最期の攻撃に失敗したドイツ軍が撤退した。キエフは1943年11月6日、870日間におよぶ占領の後、ソ連軍によって奪回された。1944年末には、ブルガリア、ルーマニア、ポーランドといった東ヨーロッパの大部分の国が、ソ連の支配下に置かれた。
1944年冬から1945年まで、アルデンヌのドイツ軍の大規模な反撃に遭い停滞していた連合軍は、1945年3月7日になってライン川を越え、ドイツに侵攻した。いくつかの都市は大量の爆撃を受けた。ハンブルグは1943年7月28日の空襲によって街の半分が破壊された。1945年4月16日、赤軍はベルリンに総攻撃をかけた。4月25日、連合軍はエルベで合流を果たした。4月30日、ヒットラーが地下防空壕で自殺した。1945年5月7日ランスでの調印されたドイツの無条件降伏は翌日に発効し、9日ベルリンのカールスホルストにおいても調印された。
日本の敗戦 太平洋では、アメリカが空母とB29の爆撃機によって優勢に立ち、ニミッツ提督とマッカーサー元帥の指揮の下で、日本が支配していた島々を一つひとつ奪回していった。上陸作戦は、両軍の間に凄惨な殺戮戦をともなった。
カミカゼ特攻隊の犠牲にもかかわらず、アメリカ海兵隊は1945年5月、日本侵攻の最終局面である沖縄戦に勝利した。
1945年4月に死去したルーズヴェルトの後を継いだ、大統領ハリー・トルーマンは、戦争の早期決着と、日本の激しい抵抗を打ち砕く目的で、新兵器である原子爆弾の使用を許可した。単なる軍事行動の一環として二つの原子爆弾が、1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に、投下された。8月12日、天皇裕仁は日本の降伏を声明し、9月2日に戦艦ミズーリの甲板上で調印された。
<用語の解説>
カミカゼ―(日本語で「神の風」)自殺行為の作戦に志願し、爆弾を搭載した飛行機をアメリカの空母に体当たりする日本のパイロット。
サロ共和国―1943年の9月から1945年の3月まで、ムッソリーニによって指導された「イタリア社会共和国」の名称。政府はロンバルディアの都市サロにおかれた。
勝利のプログラム―連邦政府に属する軍事生産局の庇護のもとに、アメリカ経済の目標を軍事生産に転換する計画

ソ連は「大祖国戦争に決起する」

「祖国の母は、君に呼びかける!」紙には「軍への宣誓」と書いてある。Irakli Toidzeのポスター(1941年)
これはフランスのLycée 1(日本の高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
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