多くの場合歴史地図は、第一の手段(研究された事象についての同時代の資料)ではないが、第二の手段ではある。すなわち歴史家が、事象のあと長い時間をかけて、様々な記録に基づいて作成した総括的な資料である。
2.地図の解釈
歴史家は、小論文あるいは研究発表のような正確さをもって、一つの地図によっていくつかのことを明らかにしようとする。地図における凡例は、小論文の構想に相当し、地図の表題は問題提起を示す。違いは、その手段だけである。すなわち地図作成あるいは空間化が可能であるかどうかである。
3.図示のタイプ
読みやすい地図をつくるために、歴史家は図示の数を制限する(凡例が8項目を超えることもまれにある)。そして三つのタイプの記号を使用する。
面の図示―色あるいは斜線で示された面は、たとえば国々が属する機構を示す。
線の図示―矢印は流れや移動、軍隊の動きを表し、実線や点線は国境を示す。
時間の図示―領土の上に記される様々な記号は、事象(軍の基地、戦争、攻撃など)を表している。

もしデータが数量化されたものであれば、(図示の大きさによって)階層化が可能となる。同じ色階(暖色あるいは寒色)によって、いくつかの事象の間の関係を表すことができる。
4.空間の範囲を限定する
地図は空間の範囲を限定する。地図がどのレベル(地方、国、世界)なのかを明確にしなければならない。取り扱う主題を有効に表現するレベルになっているかを考えることも必要になる。
5.年代を明確に区切る
地図は、時間の中に位置づけられる。最も使われるのが、一定の期間における事象の全体を現す地図である。時には、二つの日付の間に起こった事象を示そうとする地図(これは作成者にとっては未だに難しい)もある。
6.地図を解説する上での留意点
地図の表題、凡例の組み合わせ、図示の種類を分析することによって、不明確のところを排除しなければならない。こうすることによって、地図を解説し、あるいは質問に答えることができる。答える時には、凡例についての注釈が不十分であってはならない。グループ分けや解説を加えることによって、該当する国々を全て列挙するのを避けなければならない。
主題―
1942年のヨーロッパ解説の手引き
1.大ドイツ帝国
■1937年のドイツ
―1942年の大ドイツ帝国の勢力範囲
■1938年以降併合された領土あるいは保護領
2.ドイツに支配されたヨーロッパ
■ドイツおよび同盟国に支配された他の領土
■ドイツの同盟国および、例えば協力関係にある国(フランス)
3.その他のヨーロッパ
■ドイツに敵対する国
□中立国

この地図は、ヨーロッパにおけるドイツの覇権が絶頂に達した時期の、ドイツと連合国との間の力関係を示している。地図は1942年のヨーロッパを示しているが、動的な要素も含んでいる。というのは1937年におけるドイツも示しているからである。すなわち大ドイツ帝国と比較することによって、1937年から1942年までの変遷を分析することができる。地図の解説は、回顧的な側面をもつことになる。すなわち、戦争の初期についての知識を駆使して、どのように1942年の状況まで至ったのかを説明するのである。

凡例の整理は、解説の筋書きを提供する。まずドイツの動きを分析する。ドイツの拡張は、第二次世界大戦前、1938年のオーストリア併合とズデーデン地方の割譲をもって始まった。これは、大ドイツ帝国の中に、全てのドイツ人を集めるというナチスの思想によって正当化された。1942年にはアルザス-ロレーヌ地方、スロヴェニア、ポーランドの西部が、大ドイツ帝国の中にとり込まれた。しかし国境に東部においては、領土はほぼドイツの主権の下におかれた。ボヘミア・モラヴィア保護領、ポーランド総督府 [ドイツの統治機関-訳注] 、バルト三国などである。

つぎに地図は、ドイツがヨーロッパの大部分を支配していることを示す。凡例は国家の類型化を示し、「ドイツのヨーロッパ」がどのように組織されているかがわかるようになっている。

ドイツ帝国と同盟する諸国は、ヨーロッパの「新たな秩序」を指示し、軍事行動に参加する。これらの国の体制は、ファシズム・イタリアの体制のように、ナチスのイデオロギーに接近する。

ドイツとその同盟国の攻撃によって敗れた国々は、軍事占領体制の下におかれる。すなわちデンマーク、ベネルクス、北フランス、バルカン半島の一部(セルビア、アルバニア、ギリシャ)、ソ連の西部(ベラルーシ、ウクライナなど)である。

中間的なものに、「従属国」がある。ドイツは、対独協力者(ノルウエーのクヴィスリング、クロアチアのパヴェリッチ)の運動が権力を握るのを援助した。ナチスは、理論的には独立しているが、占領軍にたいし緊密な協力関係にある、これらの「傀儡国家」を充分に当てにすることができた。フランスは特殊なケースである。北部地域はドイツ軍の占領下にあり、南部地域はドイツに協力するヴィシー体制(ペタン)の権限の下にある。南フランスは、いわば「自由」である。なぜならば、1942年11月まではドイツ軍に占領されてなかったからである。マグレブ [アルジェリア、チュニジア、モロッコ-訳注]のフランス植民地は、1942年11月(英米軍の上陸)までは、ヴィシー政権下にあった。

ところで、ヨーロッパの弱小国はナチス支配をまぬがれた。中立国は、戦闘の外にいようと望んだし、どきどき迫害を逃れようとする人々にとって救済者となった(スイス、スペインなど)。ドイツ帝国と戦争状態にある国は、1939年にはイギリス一国であったが、1941年6月にはソ連が加わった。イギリスは地中海(キプロス)に存在感を示し、自由フランス軍(ド・ゴール)に援助を与え、シリアやレバノンを掌握(1941年の夏の期間)した。アイスランドは、デンマーク(1941年以来ドイツに占領)との関係を絶った。
デンマークは米軍基地となり、北大西洋におけるキー・ポイントの役割(アメリカのイギリスへの輸送船団)を担った。

地図は我々に、1942年におけるヨーロッパにおけるドイツの覇権、それと闘う軍事力、すなわち西部においてアメリカの、東部においてソビエトの援助を受けるイギリスを分析する。しかしながら、ヨーロッパにおけるナチス体制の重要な側面が、この地図には描かれていない。それはユダヤ人およびジプシーの大量虐殺、そして反対派の排除のための強制ないしは絶滅収容所である。
これはフランスのLycée 1(日本の高校2年に相当)で使われる文学・社会経済コースの仏独共同教科書です。
第2章「ドイツの占領下にあるヨーロッパ」は、11月28日より連載します。
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