教会として建てられるはずであったパンテオン リュクサンブール公園に対面する緩やかな坂を登り切ったところ、カルチエ・ラタンのど真ん中にあるのがパンテオンです。パリを訪れる観光客にはあまり人気がないように見えますが、これほどフランスを象徴するモニュメントは他にはないのではないでしょうか?
もともとこの建物は、サント・ジュヌヴィエーヴ大聖堂として建てられたのです。メッスで大病を患ったルイ15世が、もし生き延びることができたら教会を建てることを神に誓いました。そしてその46年後の1790年、すなわち大革命後に完成しました。1791年に国民議会は、この建物をフランスに貢献した偉人のための墓所にすることを決議しました。こうして神に祈るためにつくられた聖堂は祖国の聖堂に変わり、偉人たちの墓所は同時に自由の祭壇となりました。そして「フランスのパンテオン」と名づけられたのです(パンテオンはギリシャ語で「すべての神」という意味、転じて「すべての神のための神殿」になりました)。パンテオンの切り妻の部分には、「祖国は偉人たちに感謝する」(私訳)という銘が金文字で彫られています(この銘は王政復古、第二帝政によって二度消され、第二共和制、第三共和制で復活しました)。

正面の切り妻に「祖国は偉人たちに感謝する」の銘があります
共和制の指標としてのパンテオン しかし第1次帝政下においてパンテオンは、偉人の埋葬と同時にナポレオンのための宗教的儀式の場に変わりました。そして王政復古の時代には、もっぱら教会としての機能をはたすことになります。しかし偉人たちの墓は掘り返されることはありませんでした(もっとも反教権主義であるヴォルテールの墓を取り除くよう求める意見はありましたが、毎日ミサを聞くことで充分罰せられるということに落ち着きました)。その後7月王政、第二共和制、第二帝政と政治体制の変遷とともにパンテオンの意義づけも変わっていきました。
この建物が共和国によって偉人が敬われる場、休息する場として確実に復活したのは、第三共和制が宣言されて15年後、1885年におこなわれたビクトル・ユーゴーのパンテオン埋葬の日を待たなければなりませんでした。パンテオンはその時々の政治が共和制にどれだけ距離を置いているか、共和制の原理であるライシテ(政教分離)がどれだけ貫かれているかの指標にもなったのです。

ビクトル・ユーゴーのパンテオンへの埋葬
パンテオンは、1871年のパリ・コミューンとも深い関わりを持っています。パリ・コミューンが成立して5日後に、パンテオンの切り妻の上に赤旗が掲げられました。そしてその二月後には、5区の防衛を任され、パンテオンのまわりに築かれたバリケードでベルサイユ軍とたたかったミリエールが、パンテオンの階段のうえで銃殺されたのです。彼の最後の言葉は、「人類万歳!」でした。

パンテオンの正面階段で銃殺されるミリエール
地下墓地の住人たち 偉人たちの墓はパンテオンの地下にあります。地下墓地の入り口には、大革命に大きな影響をあたえ、また生前はたがいに論敵でもあったヴォルテールとジャン・ジャック・ルソーの墓が、向かい合っています。そして最初にパンテオンの建築を手がけた建築家であるスーフロの墓があります。第4室にはレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン、彼の追悼演説をおこなったドゴール政権の文化大臣アンドレ・マルロー、欧州連合の構想を打ち立てた経済学者ジャン・モネなどの墓があります。第8室にはキューリー夫妻が、そして第24室にはアレキサンドル・ドュマをはさんで、ユーゴーとエミール・ゾラが眠っています。26室にはフランス社会党の創始者、ジャン・ジョレス(地下鉄 その3を参照)が眠っています。戦争反対を訴えたジャン・ジョレスは、1914年に右翼の青年に暗殺され、10年後の1924年に支持者や労働者の手で埋葬されました。
啓蒙思想家で大百科事典を編集したディドロ、そして大革命で活躍したミラボーとマラーは、一度はパンテオンに埋葬されましたが、遺骨は別のところに移されています。フランスを代表する哲学者デカルトはここに祭られていますが、遺骨はサン・ジェルマン・デ・プレ教会の地下聖堂にあります。大革命を遂行したロベスピエール(恐怖政治を実行したことで評価が分かれるでしょうが)やダントンなどが埋葬されなかったことは、私には意外に思われました。

ジャン・ジャック・ルソーの墓 「自然と真理の人、ここに眠る」と木棺に刻まれています
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