
ル・マン駅(サルト県)での、国鉄SNCFストのピケ
1995年の冬、パリ地方は大規模のストライキによって麻痺状態になった。経過を追ってみると、予想外の拡大をみせたこの危機に関わった人たちが見えてくる。
1995年11月15日 アラン・ジュペ首相が、彼の社会保障改革プランを国民議会に提出した。このプランは、すべての労働者にたいする増税と、民間労働者の年金受給開始に必要な勤続年数が37年6ヶ月であるのにたいし、公務員の勤続年数を40年にすることが含まれていた。
11月17日 政府は、国と国鉄SNCFとが交わした改革プランについての協定を示したが、鉄道員組合は拒否した。鉄道員の定年問題、路線の廃止などが含まれていた。
11月24日 それぞれの組合の指令によって、国鉄SNCF、パリ交通公団RATP、フランス電力公社EDF、フランス・テレコム[電信電話会社] 、郵便局がストライキに入った。数日後に交通機関の長期ストライキが確立した。地方でもパリでも、大学生と高校生がこの闘争に加わった。
11月末 諸団体が声明を出した。「交通機関利用者団体全国協議会が昨日、自分たちの要求を運輸大臣が至急受け取ることを求め、SNCFに関係するすべての代表者が集まる協議の場を設定し、また改革プランについての議会での緊急討議をおこなうよう希望した」。(1995年11月30日ル・フィガロ紙)役所の利用者団体は、カルト・オランジュ[メトロ・バスの定期券]の払い戻しを要求した!
12月5日 パリでは数十万人が、ストライキを支持するデモをおこなった。デモ参加者は、52万人(警察発表)から80万人(主催者発表)を数えた。デモは地方の大都市においてもおこなわれた。

1995年12月5日の大デモ「勝利までみんなで闘おう―学生・失業者・年金生活者」(横断幕)
12月5日 政治家も、参加してきた。多数派の共和国連合の幹部は、政府を支持した。野党の社会党と共産党は、不信任案を議会に提出したが否決された。
12月初イル・ド・フランス地域圏[パリを含む周辺地域]の住民170万人が、公共交通機関を奪われた。それでもフランス人の54%はストライキを支持するか、理解した(ル・パリジャン紙11月29日付に載ったCSAの調査による)。彼らは、セーヌを走る水上バス、自転車、ローラー・スケートといった交通手段があることに気づいた。そして助け合うという新たな方法を見いだした。つまり「相乗り自動車」である。

セーヌ河畔で水上バスを待つ何千人もの列
12月6日 知識人が、政府の改革プランを支持する広告(ル・モンド紙12月3-4日付)に応えるかたちで論争に参加してきた。こうして200人の知識人が、ストライキを支持するアピールをル・モンド紙に発表した。
12月13日ジュペ首相は、12月21日に雇用問題のトップ会談をおこなうことを決め、労働組合と経営側に招集をかけた。危機的状況の終息は近い。数日後、段階的な職場復帰が始まった。その直後、首相は改革プランの大部分について断念した。
労働組合の役割ストライキ参加者のフィリップ―地域急行鉄道網A路線の運転手―は、次のように証言した。
「私はこの20年のあいだ、朝の3時に寝るか、あるいは起きるかしてきた。ウイークエンドも、7週に5回は働いた。クリスマスは、2年に1回は勤務した。20年間、ひと月のバカンスも取ったことはない。今になって、年金を減らすためにあと3年余分に働けと言われるために働いてきたんじゃない」。
リベラシオン紙、1995年1日付
国鉄SNCFにおいて、シモーヌ―秘書―は次のように語った。
「全体会議が毎日開催されて、みんな発言し、非組合員も傍聴することができるわ」。しかし組合の足並みは揃わない。もしFOとCGTがもっと戦闘的になったら、CFDTはジュペ・プランのいくつかの主要方針を支持するかもしれない。
イル・ド・フランス地域圏住民の連帯 「相乗り自動車」。この言葉は、職場も住むところも同じ地域の数人が1台の自動車で移動するということを意味する。[…] 張り紙がエレベーターの中やロビーに張りだしてある。そしてガソリン代の分担など・・・パリ地方の企業ではあちこちで、だれかのイニシアティーブが発揮される。
ル・パリジャン紙、1995年12月20日付
<質問>
1.この大ストライキは何から始まりましたか?
2.危機に関わるいろんな人たちは、どんな人たちですか?
3.労働組合の役割は何でしたか?
4.危機はどのようにして、そしてなぜ解決しましたか?
フランスの中学4年(日本の中3)の教科書「市民教育」より
スポンサーサイト
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/636-8bab848c