□1920年、ドイツ社会とイタリア社会を暴力が吹き抜け、国家は合法性を喪失した。
1.政治的、社会的民主主義の危機
→ワイマール共和政、このドイツで初めてのデモクラシーは、脆弱だった。敗戦から生まれたこの共和政は、Diktat*を負わなければならなかった。1919年のスパルタクス革命のなかで生まれたワイマール共和政は、軍隊の力を借り革命を鎮圧に成功したが、エリートたちを安心させるまでには至らなかった。政界では、三党(社会民主党SPD、カトリック中央党、自由主義右派[民主党および国家自由党])に依存した。
*一方的に押しつけられた和平と戦後処理―領土の割譲と巨額な賠償金
→イタリアでは、君主制が政界の民主化にブレーキをかけた。国家は1861年以来、一度も強固な政治的統一体を実現したことはなかった。そして工業が盛んな北部と農業が中心の南部の農業都の対立を緩和させることもできなかった。国家は、フィウメ問題*のようなナショナリズム的なテーマに国民の不満を逸らそうとした。その問題は、最終的にはファシストに利用されることになる。
*英仏がイタリーの第一次大戦への参戦を促がすために、オーストラリアからの領土割譲の条件としたロンドン協約のこと。
→ドイツでは、社会民主主義は、労働組合の幹部との対話や目下の社会政策を拠り所にしていた。経営者の圧力に加え、1929年におこった経済恐慌のもとで、国家は少しずつ調停者としての役割を失っていった。社会における衝突が多くなった。大量の失業(1932年において30.8%)が社会福祉を掲げる国家の挫折を物語っていた。
→イタリアでは、工場や農地を占拠した労働者や農民が騒擾に望みをかけるようになった。1919年3月ムッソリーニは、激しい反資本主義を冒頭に掲げるプログラムをもつ「戦闘者ファッシ」を結成した。革命前に似た不安定さが、この国を窺っていた。
2.不安定化し、逸脱する民主主義
→政界は暴力によって支配された。反対派の暗殺、新聞、労働組合にたいする襲撃、さらには1923年にヒットラーがミュンヘンで起こしたような軍事クーデタの企てにまで及んだ。軍事クーデタは、軍隊式に組織された団体あるいは旧軍人たちが起こした。そのいくつかは、ファッシスト諸党に結びついていた。国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPの突撃隊SAやムッソリーニの党の突撃隊Squadristiなどである。政治状況は、左派に対する潜在的な市民戦争に変質していった。
→1921年に「国家ファシスト党」を結成したムッソリーニは、1922年夏に起こったストライキを暴力で押しつぶすために、保守陣営に接近した。そして戦闘力を誇示するために3万名の「黒シャツ隊」からなるローマへの行進を組織した。1922年10月29日、国王は軍隊に助けを求めることもせず、ムッソリーニに組閣を命じた。
→ドイツでは、ナチズムが合法的に台頭してきた。1929年から1932年にかけて、国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となったことで、この傾向は不可避的になった。1933年1月30日、大統領のヒンデンブルグはヒトラーに組閣を命じた。
保守陣営の支持
→ファシスト政党の成功は、その多くを、決定的に保守派に負っている。
→ドイツでは、司法が極右の犯罪を擁護した。大学人、将校、聖職者、産業家そして保守諸党が、多かれ少なかれ公然とヒトラーを支持した。彼らはボルシェビキの脅威を危惧するか、あるいは共和政の排除、社会秩序への回帰、国家の栄光を望んだ。
→イタリアでは、警察の庇護を受けた突撃隊は、1920年いらい大産業家から資金の提供を受けてきた。ヴァチカンは、1871年に断絶していた教会とイタリア国家との関係を、1929年に正常化したラテラノ条約の代償として、カトリック教徒の結集に便宜を図った。
<用語解説>
社会的民主主義―この原理によって、国家は個人に、教育を受ける権利、労働の権利、健康に生きる権利などの社会的権利を保障する。
ファシズム―古代ローマにおける権力のシンボルである束桿fascioに由来する言葉。ムッソリーニは、ナショナリズムと反資本主義を掲げる、彼の最初の党の結成にこの名称を使った。広義には「ファシズム」は、イタリアならびにドイツの政治体制を指す。
ナチズム―ヒトラーがつくった党名(国家社会主義党)を縮約したもの。1933年から1945年までの間に、ドイツにおいて敷かれた政治体制を指す。強い国家、指導者の神話性、反ボルシェビキ、階級闘争の拒否、そして民族的基準によるドイツ「共同体」の再構築を特徴とする。
これは、フランスの高校2年生の歴史教科書です。
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