ファシズム、ヨーロッパを威嚇
ヨーロッパではファシスト体制と専制的体制との間に連帯が生まれ、攻撃的な拡張主義に寄与した。だからといって、独裁国家が同質という訳ではない。
1.共通点―拡張主義
→「我が闘争」の中でヒトラーは、1924年以来、ドイツには生存圏、Lebensraumの獲得が必要であると主張してきた。彼は汎ゲルマン主義を持ちだすとともに、「アーリア人種」の東方への拡張を求めた。この獲得は、ヴェルサイユ条約のDiktat*にたいする報復である。
*一方的に押しつけられた和平と戦後処理―領土の割譲と巨額な賠償金
→1935年10月のエチオピア遠征は、イタリア帝国の「アフリカの角」への拡張である。1936年ムッソリーニは、ローマ帝国のいわゆる後継者であるイタリア帝国を宣言した。統領は、地中海における領土的要求を拡大したのである。
→ドイツ経済は戦争遂行のための態勢をとった。ヒトラーは徴兵制を復活させ、ラインラントを再軍備し、1936年から戦争準備4年計画を開始した。ゲーリングに委任した彼の計画は二つあった。すなわち再軍備と自給自足経済である。
2.ファシストの脅威の増大
→スペイン市民戦争(1936年~1939年)は、ファシスト連帯が試される場となった。1936年7月のクーデタの失敗の後、フランコ将軍はムッソリーニとヒトラーの軍隊の支援を受け入れた。1937年、ドイツ軍団「コンコルド」はバスク地方の街ゲルニカを廃墟にした。この連帯は、軍事同盟に具体化した。1936年のローマ・ベルリン枢軸であり、1939年の更迭協約[安全保障条約]である。
→オーストリアでは、1938年の国民投票によって、オーストリアの[ドイツへの]併合が決まり、[共和国の]シュシュニック政府が消滅した。オーストリア人の一部の熱狂的な歓迎は、「偉大なるドイツ」の「東方への進出」への急速な同化と、社会のナチズム化を促進した。民主主義の消極性は、続いてチェコ・スロバキアのドイツ語圏であるズデーデン地方の併合を、ヒトラーに許した。ファシズムは、第二次世界大戦の契機をつくった。
3.ヨーロッパにおける専制政治の多様性
→1918年から1920年までに吹き荒れた革命の記憶によって醸成された反共産主義(しばしば反ユダヤ主義と結びつけられる)は、ボルシェビキとユダヤ人の支配にたいする恐怖を西ヨーロッパに植え付けた。そして独裁体制は、革命にたいする城塞として現れた。この恐怖は、1920年代以降の専制的体制の樹立を助長した。しかしながらこれらの専制的体制は、ファッショ的全体主義とは同一ではない。
→スペインでは、1936年以降フランコが、1933年にアントニオ・プリモ・デ・リヴェラによって創立された民兵組織ファランヘ党の支持によって体制を築いた。それだけでなく、教会と軍隊も彼を支持した。1926年ポルトガルでも、サラザールが専制的国民国家、エスタド・ノヴォ[新国家]の建設を試みた。ファッシストの影響をうけたこれらの体制は、とりわけその国に根強い伝統をもつ独裁政治主義に基礎をおいている。
→中央ヨーロッパでは、伝統的エリートが、軍事クーデタのお陰で自分たちの支配を維持した。ハンガリーでは、1920年に海軍大将のホルティが、ポーランドでは1926年に元帥のピウスツキが起こしたクーデタがそうである。彼らは、ハンガリーの「矢印十字団」のようなファシストの小集団に依存した。しかし、もしこれらの政府と軍の幹部の独裁の手法が30年代に過激になったとしても、ファッショ的な要素は抑制されたままであった。
<用語>
独裁政治主義―専制政治体制。スペインおよびポルトガルでは、指導者が忠誠の見返りとして、個人あるいはグループと直接に個人的な関係をもつ(恩顧主義)。この緊密な関係は、仲介(議会、代議士、上院議員)なしにつくられる。
汎ゲルマン主義―ドイツの文化、言語をもち、あるいはドイツ「人種」である国民のすべて、つまり約一千万人を帝国に結集することをめざす国家主義的運動。
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