「第三帝国」の指導者たちによる、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を絶滅する決定は、いつどこでおこなわれたか?

ラインハルト・ハイドリッヒ
保安(ゲシュタポと刑事警察)と情報活動(SD)の責任者であるラインハルト・ハイドリッヒは、ヒムラーの片腕として「ユダヤ問題の最終解決」の責任者のひとりであった。1942年6月、チェコのレジスタンスが組織したテロ攻撃で、プラハで死亡した。
文字色戦争および「第三帝国」の人種政策の過激化 ナチスは人間社会に、動物種の進化についてのダーウィンの学説を適用した。すなわち人類の歴史は、優秀と思われる民族が勝利してきたはずの闘いに他ならない。戦争行為は、弱者や「寄生虫的存在」の排除を含むというわけである。1939年10月、ドイツの精神病院に収容されていた患者を安楽死させるT4作戦を計画した。そして「研究所」に、ガスによる虐殺技術を開発させた。1940年1月から1941年8月にかけて、7万人が毒ガスによって、あるいは注射によって殺された。
1939年1月からヒトラーは、新しい戦争は「ヨーロッパのユダヤ民族の絶滅」をもたらすと「予言」した。にもかかわらず、1941年まで
ジェノサイドの遂行は問題とはならなかった。東ヨーロッパかどこかの島―当時はフランス領のマダガスカルが候補に挙がっていた―に「居留地」をつくることが計画されていた。ドイツ、つぎにナチス占領下のヨーロッパのユダヤ人に対して、差別的な措置(財産没収、ダビデの星の着用など)を受けていた。東ヨーロッパでは、強制労働を課され、ゲットーに集められた。そこで50万人のポーランドユダヤ人が押し込められた。ゲットーでは、日に185カロリーしか与えられなかった。
「ユダヤ人問題の最終解決」 Shoah[ユダヤ人大量虐殺]は、前もって周到に準備された計画ではなかった。ソ連にと「殲滅戦」を闘う中で、1941年6月から少しずつ支配した過激な考えが生みだしたものであった。
アインザッツグルッペンは、「ユダヤ系ボルシェビキ」のすべての役所の職員、すなわち共産党に関係する政治委員とユダヤ人を処刑した。虐殺はやがて、ユダヤ人家族のすべてに及んだ。こうして1941年9月、キエフの33,771人のユダヤ人がBabi-Yarで銃殺された。ユダヤ人根絶は始まったが、それはまだソ連のユダヤ人に限られていた。
1941年秋、電撃作戦の失敗により、ポーランドユダヤ人の東方への強制収容を計画することは不可能になった。そこでヒトラーと側近たちは、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を決めたと思われる。1914年11月、
国家保安本部RSHAの責任者であるハイドリッヒは、「ユダヤ人問題の最終解決」のための会議を招集した。1942年に延期されたヴァンゼー会議は、1,100万人のユダヤ人の東への強制収容を計画し、そこでハイドリッヒは一人も生き延びさせてはならないと明言している。
ゼノサイドに従事した官僚機構 1942年、絶滅のための収容所は「作戦」を実行し始めた。そのためにドイツ指導部は、「
ラインハルト作戦」の一環として、ポーランド総督府のゲットーの撤去に着手した。1942年の夏から、西ヨーロッパのユダヤ人が絶滅の収容所に強制収容されはじめた。
アインザッツグルッペンが統率した「虐殺の機動作戦」(ラウル・ヒルバーグ[アメリカの歴史学者-訳注])は、1943年まで続けられ、犠牲者の総数は125万人に達するとみられる。
ヨーロッパ全域からのユダヤ人の強制収容は、国家保安本部の宗教部ユダヤ人課長であったアドルフ・アイヒマンが監督した巨大な官僚機構によって遂行された。ジェノサイドの管轄は親衛隊SSであった。しかしその遂行には、ドイツ社会の広範な部門(軍最高司令部、企業、鉄道、医師、大学)、それに対独協力を受け入れた国の行政機関も加担した。
<用語解説>
アインザッツグルッペン 治安警察の部隊、および国防軍が征服した領土において「ドイツ帝国の敵」の消滅と治安を任務とする、5D(親衛隊SSに属する組織)の部隊。
ラインハルト作戦 ポーランド総督府のユダヤ人の殺害作戦のコード名。国務長官および財務大臣のフランツ・ラインハルトにちなみ、また暗殺されたラインハルト・ハイドリッヒへの「追悼」の意味も含んでいる。
国家保安本部RSHA 情報機関(SD)と親衛隊SSの指揮下にあるゲシュタポを含む警察を統括するために、1939年に設立された帝国の保安本部。
<キーワード>
ジェノサイド ある国民、民族、宗教のグループのすべてあるいは一部分を全滅させる意図のもとに犯す行為(1944年につくられた用語)。
Shoah ヘブライ語で「大惨事」を意味するShoahは、ユダヤ人の大量虐殺Géocideをあらわすのにより適切な言葉として1970年代から使われ始めた。アメリカやドイツではホロコーストHolocastが使われているが、聖書では殉教の犠牲者を意味することから、ときどき異議が唱えられる。
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