この意味を理解するためには、生徒はシンボルの起源を知らなければならない。そして簡潔な歴史を知ることになるだろう。
Le 14 juillet (7月14日―革命記念日)
三色旗やマルセイエーズと異なって7月14日の祝日は、大革命のときではなく、1880年の第三共和制のときに誕生した。
起源 そのときまで、国の祝日はカトリックの宗教的な祝日、君主制を讃える祝日であった。脱宗教 laïque をその精神とした第三共和制は、自由を求めるたたかいの記憶に国民を統合させるものを求めていた。そのためには、フランス人の全てが集まることができる行事をおこなわなければならない。歴史はひとつの日を提示する。すなわち1790年7月14日の「連盟祭」。
1789年末から、都市あるいは農村で、住民たちの交歓が見られるようになった。この親愛をしめす集まりは、連盟federationと呼ばれた。憲法制定議会は、バスティーユ奪取を記念する日に、全国連盟祭をパリで開催することを決めた。国王、タレイラン、ラファイエットが出席するなかで、フランス全県から駆けつけた14,000名の国民衛兵がシャン・ド・マルスに集い、「国家に、法に、国王に忠実であること」そして「友愛の分かちがたい絆によって、全てのフランス人に堅く結びつづける」ことを誓った。すべては、熱狂した大群衆の目の前で進行した。
こうしてフランスは、支配者たちの偶然による結合ではなく、国民が表した自由な意思によって造りあげられたのである。この日付は、革命を記念する最初の日―バスティーユ奪取の日、自由のシンボル―であるという理由から、他のいかなる革命的な日付よりも好まれたので、14 juillet(7月14日)は国の祝日として、また脱宗教の祝日として認められたのである。
最初の式典は、極めて明瞭に表現された
―午前中、公の場において、軍隊行進が宗教的な行列に、三色旗が領主旗に取って代わった。
―正午、共和主義的宴会。この歴史的な交流のあいだ、人びとはパンとワインを分かち合いながら、目下の問題について意見を交換した。
―午後および夜、それは庶民の大祭。それぞれの街でダンスを踊り、最後は、火薬を探し回ったあの日を想起しながら花火で締めくくった。
歴史 14 juillet(7月14日)は、その歴史のなかで、いくつかの重要な時を経験している。
1936年の14 juillet は、人民戦線の勝利の後の、大いなる希望のなかで迎えられた。1789年と1936年との二つの日は、それぞれの時代において同一の意味をもつ。すなわち「同じくらい偉大ななにか」が成し遂げられたのである。しばらくの間、ビシー政府が行進をすべて禁止した。1945年の14 juilletは、自らの意味を取りもどした。すなわち人びとが祝うもの、それは勝利であり、取りもどされた自由である。今日14 juilletは、軍隊行進から花火まで、その初期の式典の形式を守っている。
19世紀の末、14 juilletにライバルが現れた。メーデー(ストライキの日)である。8時間労働を獲得するための最初のストライキが、1886年にシカゴで起こった。各国の労働者の党は、1890年から5月1日をストライキの国際デーにすることを決定した。メーデー(5月1日)は、1947年4月30日から労働(者)の祭典となり、祝日となった。
これは小学校4~5年の生徒に、市民教育をいかにおこなうかという教師用のガイドブックです
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