「ユダヤ人とフランス」展
1941年9月6日、パリで「ユダヤ人とフランス」展が開催された。ゲシュタポに従属するフランスの組織、ユダヤ人問題研究所が主催したこの展覧会には、30万人以上が入場した。
1940年からヴィシー体制は、自らの権限でユダヤ人の地位に関する法律を制定し、外国籍のユダヤ人の一部を収容所に閉じこめた。一方ドイツ占領軍も占領地区において、たとえばダビデの星の着用のような目に見える形で、日常生活における差別的な措置をとり始めた。
1942年から占領軍は、ユダヤ人を絶滅収容所へ強制収容するようフランス政府に圧力をかけた。ヴィシー体制は、交換条件として政治的譲歩を勝ち取れることを期待して、占領軍に行政組織およびフランス警察の協力を約束した。しかしながらフランスに住むユダヤ人35万人のうちの多数が、とくに子どもを隠すことで、フランス人の一部の救いの手にすがることができた。それでも7万5千人のユダヤ人-が、フランスからおもにアウシュヴィッツへと強制収容された。そのうち生き延びたのは、わずか2,500人である。
年表1940年10月3-4日 最初のユダヤ人の地位に関する法律
1941年3月29日 ユダヤ人問題総合委員会の創設
1941年6月2日 二度目のユダヤ人の地位に関する法律(禁止する職業を拡大したリスト)
1941年7月22日 占領地区に「ユダヤ人企業のアーリア化の登場」(強制買収から事実上の没収までにいたる)
1942年3月27日 最初の強制収容の輸送列車が、ドランシーからアウシュヴィッツに向けて出発した。
1942年5月29日 占領地区において、ダビデの星の着用義務づけ
1942年7月16-17日 パリで、ヴェル・ディブの一斉検挙
ユダヤ人の地位に関する1940年10月3-4日の法律1940年10月3日の法律
第1条 本法が施行されるにともない、3人の祖父母がユダヤ人であるか、配偶者がユダヤ人である場合2人の祖父母がユダヤ人である者は、すべてユダヤ人とみなされる。
第2条 ユダヤ人が以下に列挙する公的な職あるいは任務に就くこと、および従事することを禁じる。
1.国家元首、政府のメンバー、国務院、レジョン・ドヌールの賞勲議定官、破棄院[最高裁判所-訳注]、会計検査院、鉱山団、土木団、財務監察庁、控訴院、小審裁判所、治安判事、専門家団体からなる裁判機関のすべて、選挙で選出された議会のすべて。[…]
4.教師集団のメンバー
5.陸海空軍の士官
第5条 ユダヤ人は無条件に、以下の職業のいずれかに従事することはできない。
新聞、雑誌、通信社、あるいは定期刊行物の社主、発行責任者、編集者。厳密に科学的な出版物は除外する。[…]
1940年10月4日の法律
第1条 ユダヤ人の在住外国人は、本法が公布される日をもって、居住する県の知事の決定に従い、特別収容所に収容される。[…]
学習の足跡 その1
1.ユダヤ人の身分に関する法律の主要な条項は、何ですか?1935年の
ニュールンベルグ法と比較しなさい。なぜフランス国家は、1940年からユダヤ人にたいして迫害を始めたのでしょうか?
2.なぜ「ユダヤ人とフランス」展の解説文は、この展覧会がナチスの反ユダヤ主義から直接影響を受けていると証言するのでしょうか?
3.ドイツ占領軍は、どのような目的でダビデの星の着用を義務づけましたか?
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