レジスタンスは、フランス人の間ではどのように支持されたのか? ジャン・ムーランJean Moulin(1899年-1943年) 1940年ヴィシー政権によって、ウール=エ=ロワール県知事の職を罷免される。1941年、ロンドンのド・ゴール将軍に合流する。1943年、フランス国内のレジスタンスの統合に成功する。1943年6月21日リヨン郊外のCaluireにて逮捕され、リヨン郊外のゲシュタポの責任者であるクラウス・バルビーによって拷問死させられる。
レジスタンスの誕生 1940年6月18日にド・ゴール将軍がロンドンから発した呼びかけは、「自由フランス」の誕生を決定づけた。フランス国外に消えた戦力を再結集しようというのである。困難な船出であった。13万名の兵士がイギリスに逃れた。しかし
自由フランス軍FFL に結集したのは7千名を超えなかった。1940年8月にチャドの植民地総督のFélix Ébouéが合流を表明したにもかかわらず、植民地帝国においても結集は成功しなかった。しかしながらド・ゴール将軍は、唯一正当性をもつフランス、戦うフランスを代表していた。ド・ゴールはイギリス首相のチャーチルの支持を得ると、アメリカ大統領ルーズヴェルトに[フランス解放の] 意義を懸命に説いた。
フランス国内ではレジスタンスが、まず個人的な行為として始まり、統率を欠いた。1940年11月、学生と高校生5千名が自発的に凱旋門の前でデモをした。
レジスタンス組織 は次第に組織されていった。南の地区では、Combat [戦闘]、Franc Tireur [狙撃兵]、Libération [解放]、北の地区ではLibération-Nord [北の解放]、 Organisation civile et militaire [市民と兵士の組織]、Défense de la France [フランスの守り] といった組織が生まれた。彼らは、プロパガンダや非合法の新聞の発行などに重点を置いた。並行して連合軍を軍事的に援助(サボタージュ、捕虜の脱走、情報提供)する
秘密組織Réseau とともに活動した。
国内のレジスタンスは、あらゆる階層から集められた。民族主義者も、キリスト者も、社会主義者もいた。共産主義者は、自分の党が独ソ条約に賛同したにもかかわらず、1940年から個人の資格でレジスタンスに参加してきた。ドイツ軍のソ連侵略後に、共産党がレジスタンスに参入する以前にである。1942年フランス共産党は、Francs-tireurs partisans (FTP)[狙撃兵とパルチザン]を結成した。
レジスタンスの統合(1942年-1944年) 1942年の1月、レジスタンスを統合する使命を帯びたジャン・ムーランは、落下傘でフランスに降下した。そして1943年5月に、
レジスタンス国民会議CNR を組織した。これはド・ゴール将軍の影響の下で、レジスタンス運動、政党(右翼穏健派から共産党まで)、非合法の中で再編した労働組合(CGTを含む)をひとつにまとめたものである。1944年3月に発表されたCNRの綱領は、共和主義的自由の回復のみでなく、[解放後の] 経済および社会の根本的改革(国有化、社会保障制度)を求めるものであった。
1941年8月21日、パリの地下鉄駅Barbèsにおける「ファビアン大佐」のドイツ兵殺害のような襲撃は、占領軍に捕らえられている人質を処刑する口実をつくった。投獄されている30万人のレジスタンス活動家は、しばしば拷問にかけられた。レジスタンス行為により強制収容された者は40,000人(非ユダヤ人の収容者88,000人のうち)、銃殺や収容所で死亡したレジスタンス活動家は35,000人と推定される。
参加者は少数にとどまった レジスタンスは、きわめて少数の運動にとどまった。1943年、強制労働奉仕STOの拒否者がレジスタンスに加わってきた。しかし人里離れた地域やVercors や Glièresといった山岳地帯で形成された
マキ に参加したのは、その内のわずかであった。自由フランス軍の兵士は、1943年4月に55,000名に達した。そのうち66%は、植民地での徴募兵であった。
レジスタンス活動家の少なさの要因は、その危険の大きさにあるが、またヴィシー政権が法的に認められた権力であることにもよる。占領軍やヴィシー政権に対する反抗は、消極的な抵抗行為によっても示された。しかしChambon-sur-Lignon (オーヴェルニュ地方)のように、村全体が決起して、数千人のユダヤ人の避難を受け入れるという危険を冒した抵抗の地方もあった。
<用語の説明>
レジスタンス国民会議CNR 1943年5月に設立、ジャン・ムーランが主宰した。彼の逮捕後、民主的キリスト者であるジョルジュ・ビドーが引き継いだ。
自由フランス軍FFL 1940年ド・ゴール将軍によって編成された志願兵からなる部隊。第一フランス師団と第二機甲部隊が中核となり、形成されていった。フランス解放に参加した。
マキ 武装したレジスタンスの地下組織が組織された、人里離れた地域。武装レジスタンスのグループmaquisの名称にもなった。
<鍵となる概念>
レジスタンス組織mouvement 軍事行動に加えてプロパガンダ活動(ビラや新聞の普及)を指導するレジスタンス組織
秘密組織Réseau 自由フランスや連合軍の情報活動と連携して、軍事情報の収集に特化したレジスタンス組織。
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