フランスはいかにして解放されたか?そして戦争の総括は? 解放者の受け入れ アメリカ軍落下傘部隊の兵士に飲み物を贈るサント・メール・エグリーズ(ノルマンディ)の女性
上陸 フランスの解放は、1942年11月の連合軍北アフリカ上陸から始まった。ド・ゴール将軍はレジスタンス国民会議CNRに結集した国内のレジスタンスの支持をうけ、フランス国民解放委員会CFLNを指導した。CFLNは1944年6月3日、フランス共和国臨時政府GPRFに移行した。
1944年6月6日の連合軍ノルマンディ上陸により、ドイツ軍は退却を始めた。8月15日には第二陣のプロヴァンス上陸が続き、これにはLattre de Tassigny将軍率いるフランス軍が参加した。レジスタンスの諸組織は、1944年2月以来フランス国内軍FFIに結集し始め、サボタージュやゲリラ的攻撃によってこれを支えたが、それが占領軍による民間人の凄惨な報復を招くこともあった。例えば1944年6月10日、オラドゥール・シュル・グラーヌ村(オート=ヴィエンヌ県)の642人の村人は、ドイツ軍親衛隊SS師団の兵士によって虐殺された。
連合軍がパリ迂回を検討していた頃、首都では8月19日にロル・タンギー大佐に率いられたフランス国民軍FFIが主導する蜂起が起こった。ルクレール将軍の第二機甲師団の増援部隊もパリに入り、8月25日[ドイツ軍司令官]フォン・コルティッツ将軍は降伏文書に署名した。翌日シャンゼリゼーに降り立ったド・ゴール将軍は、歓喜する群衆に迎えられた。
「フランスは、自分の場所に戻ってきた」 ド・ゴール将軍に率いられた臨時政府は、徐々に連合国そして地方のレジスタンス勢力に自分の権威を押しつけてきた。政令「共和主義的合法性の回復」が出され、ヴィシー政権によって発せられた条文の全てが撤廃された。ヴィシーの指導者たちは、ドイツに脱出していた。1944年9月連合国は、占領地の
連合軍行政府AMGOT の枠内でフランスを直接管理することを断念した。臨時政府によって指名された共和国の政府委員は、レジスタンス組織によって設置された解放委員会を排除した。共産党は、ソ連から帰国した全国書記長モーリス・トレーズの帰国後、
愛国民兵Milices patriotiques の解散を受け入れた。
ド・ゴールは、フランスを戦勝国の一員にしようと懸命になった。フランス国内軍FFIの編入によって強化されたフランス軍は、占領された領土の解放を成し遂げ、ドイツ軍に対する勝利に貢献した。2月におこなわれた
ヤルタ会談 に欠席したフランスは、1945年5月7日ローマ、5月8-9日ベルリンにおいて、ドイツ
降伏 文書の調印に参加した。
「暗い数年間」の総括 第二次世界大戦におけるフランス人の死者は、50万人を数える。その中には、爆撃や強制収容による多くの民間人が含まれる。解放後も、配給制は数年間続いた。経済と国内の設備は、これから復興しなければならなかった。150万の建物が、爆撃によって被害を受け、100万人が家を失った。1,000を超える橋が破壊され、鉄道の半分と道路の大部分が通行不能であった。
たとえ内戦状態にならなかったにしても、解放のための戦いは国民の融合にダメージを与えた。臨時政府が戦後の
追放 についての法的手続きを命じる前に、占領軍と交際したと非難された女性は、公の場で頭を刈られ、8,000人から9,000人の極右民兵や対独協力者が処刑された。戦争による国民的記憶の傷が癒されるために必要な時間が、もっとも長かった。
<用語の解説>
占領地の連合軍行政府AMGOT 解放されたフランスの行政のために、アメリカ合衆国によって構想された
降伏協定 一国の軍隊が敵国の軍隊に降伏する際の軍事協定。戦勝国も敗戦国も、政府は参加しない。
ヤルタ会談 1945年2月4~11日に、クリミア半島で三巨頭が集まり、とくにドイツ占領区域の区割り、オーデル・ナイセ線 [ドイツとポーランドの国境線-訳注] における国境の確定、国際連合安全保障常任理事国の拒否権の付与について決めた。
愛国民兵 Milice patriotique 解放委員会の管轄下で、警察の役割を果たすために1944年3月に設立。共産党のレジスタンス活動家が影響力を持った。
鍵となる概念
追放 ドイツ占領軍あるいはヴィシー政権に協力した人物の裁判あるいは排除。最初の「野蛮な」追放は、裁判抜きの処刑。その後に、臨時政府が設置した法廷(高等法院を含む)による法的追放がおこなわれた。
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