
フランスの解放
⇒連合軍の上陸
★レジスタンスの活発な地域
→連合軍の攻撃(英・米・仏)
■主なドイツ軍基地
■連合軍による解放地区(1944年8月31日)
■ドイツ軍占領地区(1944年8月31日)
⇒ドイツ軍の撤退
→ ドイツ軍の反撃(1944年12月-1945年1月)
▲_▲_▲1945年1月の戦線
パリは解放された!1944年8月25日、パリが解放された夜、ド・ゴール将軍はパリ市庁舎に向かった。そこでレジスタンス国民会議CNR、パリ解放委員会、戦闘員そして彼を迎えるために集まった群衆の前で次の演説をおこなった。
「あなた達は、この感情を抑えるのか?今ここに、自分たちの場所に、自らを解放するために立ち上がったパリに、自分の手で解放を成し遂げることができたパリにいる我々すべて、男も女も、我々のすべてを締めつけるこの感情を抑えるのか?ノン!私たちは、この深い、神聖な感情を抑えることはしない。私たち一人ひとりの、あの惨めだった生活を超越する数分間がここにあるのだ。
パリ!陵辱されたパリ!打ち砕かれたパリ!苦しめられたパリ!しかし、パりは解放されたのだ!パリは独力で解放されたのだ。パリの市民によって、フランス軍の助力によって、フランス全土の、戦うフランスの、フランスだけの、真のフランスの、永遠なるフランスの、助力によって解放されたのだ。
そうとも!パリを占領していた敵は、我々の手によって降伏させられた。フランスはパリに、自分の場所に戻ったのだ。フランスは、血塗られたパリに、しかし毅然として戻った。フランスは、自らの義務と権利についての、これまでにない大きな教訓を手にしてパリに戻ったのだ」。
シャルル・ドゴール、演説とメッセージ、第1巻(1940年-1946年)、Plon社、1970年
ペタン将軍の別れのメッセージこのメッセージは、いくつかの場所に張りだされたが、状況を考慮して決して公表されなかった。
フランス人よ、
私があなた方に話すのは、これが最後である。
私が国民議会からフランスを休戦と平和のなかで存続させるという使命を受けて以来、我々は共に希望をもち、同じ祖国の土の上で苦しんだのだ。私個人の資質は、ただ私の休息を犠牲にしただけではない。敗戦により敵の法律に従うことを余儀なくされ、他人の過ちがもたらす苦しみをあなた方から取り去るために、私は過去[第一次大戦]の勝利によって得た私の威信のすべてをつぎ込んだのだ。
私の使命は、生け贄の使命であった。敗戦を受け継ぐ者として、私はフランスの肉体と魂とを守ろうと試みた。私がそれに成功したかどうかは、歴史が示すだろう。[...]
あなた達の不幸は、休戦によってではなく、敗戦によるものである。私がこの4年間やってきたことは、他の国々が始めては敗れる戦争から、この祖国の土を離れることができない、また離れる気もないフランス人を庇護することではなかったか?[...]
ド・ゴールが大胆にもフランスの剣を振りかざしたとしても、私が根気よくフランスの盾を掲げ続けたことを、歴史は忘れないであろう。
1.パリ解放にド・ゴール将軍が与えた意味は、どのようなものでしたか?
2.ペタン元帥は、1940年以降の自分の役割について、どのような考えを持っていましたか?今日、「剣」や盾という主張が受け入れられないのはどうしてなのか、説明しなさい。
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