戦争末期、フランスはどのような問題に直面したか?
戦争と占領の終了 ドイツ軍に占領されたフランスは、1944年6月6日の連合軍ノルマンディ上陸から少しずつ自由を取りもどした。戦闘による死者の数は第一次世界大戦に比べ少なかったが、物的損害は1918年をはるかに上まわった。
1918年においては大きな被害を受けたのは13県に過ぎなかったが、1945年には74県にも上った。鉄道網は半分以上が不通となり、人口の7分の1が戦争の被害を受けた。そのうえ占領軍の略奪や徴発によって経済基盤は甚大な打撃を受けた。国民への物資供給はときどき深刻な状態に陥った。
1940年の敗戦に続き、レジスタンスと対独協力派との対立に引き裂かれ、国内的にも国外的にも弱体化した戦争状態から、フランスは抜け出した。ド・ゴール将軍は、国民の結束とフランスの国力の回復に専念した。
国際舞台におけるフランスの役割の回復 ドイツ占領地区の管理国となり、国際連合安全保障理事会の常任理事国となったフランスは、国際舞台における役割を確立した。
にもかかわらずフランスは戦後早々、植民地とりわけチュニジア、モロッコにおけるにおける民族主義の高まりに直面した。インドシナではホー・チ・ミンが、ヴェトナム民主共和国を宣言した。1945年5月8日、アルジェリアの都市Sétifで起こった蜂起により、数百人のヨーロッパ人が犠牲になった。鎮圧は激しさを極め、数千人のイスラム教徒のアルジェリア人が命を落とした。
しかしながら植民地帝国が国力の基本的な構成要素であると考えるフランスは、植民地人民の独立の要求に耳を傾けることを拒否した。
分裂した社会 ヴィシー体制の崩壊後、ド・ゴール将軍を指導者とする
フランス共和国臨時政府GPRFが、国の舵を取った。最初に取り組む仕事のひとつは、地方の民兵組織の武装解除をおこない、中央の政治権力を回復することであった。このためにも対独協力者にたいする随意の復讐行為をやめさせ、法的根拠による
追放をおこなうことであった。しかしながら法的追放は、とくに政治家や知識階級のエリートに適用され、全体として比較的控えめにとどまった。告訴された160,000人のうち、45%が恩赦を受け、16%が投獄、死刑はわずか4%であった。
レジスタンス国民会議CNRはすでに占領下において、戦後のフランスの改革についての重要なプログラムを完成させていた。解放後の1945年4月におこなわれた地方選挙において、フランスではじめて女性が投票したこともその一つである。1945年10月21日におこなわれた新しい憲法制定の可否を問う国民投票にたいして、国民は96%の賛成率をもってこれに答えた。
様々なレジスタンス活動家が政界に進出したが、政治勢力の比率は、はっきりと左翼に傾いた。右翼は一時的に、ヴィシー体制の記憶によって不人気であった。主な政治勢力は、レジスタンスにおいて積極的な役割を果たしたフランス共産党、社会党SFIO(国際労働者協会フランス支部)、人民共和運動MRP、1944年に設立されたキリスト教民主党であった。
<用語の説明>
レジスタンス国民会議 1943年5月27日に設立、8つのレジスタンス組織、6つの政党、2つの労働組合全国センターからなる。
フランス共和国臨時政府GPRF 1944年6月3日にアルジェリアで設立。フランス国民解放委員会CFLNを引き継ぎ、共和国の諸制度の回復と新しい議会の選挙まで政権を担当した。1944年10月23日まで連合国の承認を得ることはできなかった。
<鍵になる概念>
追放 ナチスおよびヴィシー体制に協力した人物が公職に就くのを禁じること。合法的な追放が確立するまでは、住民による復讐がおこなわれた。
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