降伏の翌日、ドイツにはどのような自由の余地が残されていたか?
1945年5月8日―象徴的な日付 当時のドイツ人にとって、そして今日のドイツ人にとって、ドイツが無条件降伏した1945年5月8日は、両義的な意味をもつ。つまり解放であるとともに敗戦という意味、そして再生の意味である。
「
零年」(ドイツ語ではStunde Null零時)は、1950年代に表れた言葉である。爆撃によって荒廃した街のイメージは、人びとの心に深く刻み込まれ、国のすべてが灰に帰したような印象を与えた。国家社会主義体制の崩壊によって、ドイツの政治は潰滅したかのようにみえるであろう。
しかしながら、第二次世界大戦の終結がもたらした、過去との絶対的な断絶を相対化し、「零年」が語られる要素はどのようなものかを問題にしなければならない。ドイツ人は実際のところ、戦争の影響と破壊の規模に対して、皆が同じような反応を示した訳ではなかった。
困窮する国民 ドイツ国民の日常生活は、長期にわたって戦争の影響を受けた。建物の3分の1が破壊され、道路の50%は不通となり、交通機関の5分の2は運行を中止したままであった。しかしながら一部の都市は爆撃を免れた。配給制になると、瞬く間に闇市が横行した。都市の住民は密かに農村を訪ね、農民から高価な物と引き換えに食料を分けてもらった。
1945年、戦死者に加えて数え切れなくほどの人が亡くなった。1,100万人のドイツ兵が、依然として捕虜になっている。950万人の「
海外流民」が故国に帰ろうとしている。1950年までには、赤軍の進駐により、チェコスロヴァキアあるいはポーランド内に新たに与えられた領土から追い立てられた、1,200万のドイツ人避難民が、ドイツに向けて殺到する。外国人とみなされるこれらの人びとを社会に統合させるのは、この国にとって大きな脅威となる。
連合国諸国と占領地区の組織化 敗れたドイツは、連合国の
管理委員会によって占領され、管理された。領土が分断され、4つの占領地区(ソ連、アメリカ、フランス、イギリス)に分割され、国としてのドイツは地図から抹殺されたように見えた。連合国諸国は民主的で平和なドイツを再建することが目的であるように振る舞った。しかしドイツ全体で企業を
脱ナチス化することには失敗した。ソ連の占領地区では共産主義者が、脱ナチス化を彼らの政敵を取り除くために利用した。西側の占領地区では、ナチス体制の下で果たした各個人の役割を明らかにする目的で、質問事項に答える形式の調査書が配られた。この方法で、多くの人間が追及から逃れることができた。
その一方で4つの占領国は、それぞれが管理する占領地区において、極めて異なった方法を採用した。イギリスとアメリカは、ソ連の勢力の増大に直面している西ヨーロッパの国力を補強するために、ドイツの急速な経済的再建に熱心に取り組んだ。フランスは、政治的・経済的地図上で一時的に分裂したドイツ、あるいは少なくとも地方分権化したドイツを望んだ。フランスが、過去に何度も攻撃してきたこの国が、国力を隠し持つのを阻止しようとしたのは事実である。大量の破壊を被ったソ連は、多額の賠償金を要求し、占領地区に共産主義体制を確立することを望んだ。
<用語の説明>
管理委員会 四つの占領地区の総司令官およびドイツ占領の最高機関の代表がベルリンでおこなう委員会。ドイツ全土に関わる法律の議決は、全員一致でおこなわれた。
国外流民 強制労働を強いられた人びと、戦争捕虜、強制収容所に収容された人びと、あるいは祖国に帰ってきた亡命者
<鍵となる概念>
「零年」 1950年代につくられたこの表現は、当時の多くのドイツ人にとっては、第二次世界大戦の終結による物質的および精神的な断絶を強調する言葉であった。しかしながらこの概念は、第三帝国の時期と戦後の間に社会的かつ政治的な連続性が多くみられるという理由によって、しだいに再検討されるようになった。
脱ナチス化 ナチス的要素をすべて国家機構から追放する目的で、連合国が推進した政策。
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