
「5年間の猶予を、私に与えてください。あなたは見たことのないドイツを目にするでしょう」アメリカ兵が、ヒトラーの言葉を嘲笑的に引用した掲示板。1945年4月18日、ケルンで撮影。
住民から見た占領軍 ソ連兵は征服者としてではなく、規律正しい占領軍として街に入ってきた。戦場から来たと聞いていたが、彼らに対する憎しみの感情は湧いてこなかった。むしろ密かに畏怖のようなものを感じながら、この異国の人間たちをながめていた。彼らの顔には、長く過酷な戦争の痕跡が残っていたからである。彼らは我々の兵士のようにぼろをまとっていなかったけれど、完璧に装備し、極上の軍服を身につけ、平和になじんだアメリカ兵のもつ雰囲気も、3皿か4皿の食料に、配給品のネスカフェ、ヘネシーのチョコレート、ラッキー・セブンの煙草を加えた食事も、いっさい目にすることはなかった。ロシア人とドイツ人の間には、犠牲者同士の、一種の連帯感が生まれた。我々の街と同じように、荒廃したロシアの街を写した写真を目にしたときは、とくにそう感じた。
しかしやがて、夜になると彼らが攻撃的な行動をとるという苦情が出はじめた。夕方になると集団で、蒸留酒を手にして、中に入れるように求めながら、家から家へと移動した。求める物がないと、ガラスを割り、食器を粉々にした。それはしばしば、前日に子どもたちにプレゼントをもってきたソ連兵であったりした。
Dietrich Güstrow、「あの時代」、ベルリン(西)、1983年
コンラート・アデナウアーの推薦状軍政府
ケルン分遺隊EIH2
合衆国軍第22部隊
Geary大佐宛
1945年5月8日
Geary大佐殿
この書状にて、ケルン市長Konrad Adenauer氏をあなたに紹介いたします。氏は、5月10日の祝日について、あなたが必要とされるであろう情報をすべて提供できるでしょう。
アデナウアー博士は、1919年から1933年までケルンの市長でした。以後ナチスによって市長の職から追われ、激しい迫害を受けました。アデナウアー博士の名声は、ケルン以外にも広く知れ渡っているところであります。彼の名は、ドイツに貢献するホワイト・リストの一番目に書かれています。
元職に復帰する以前には、ケルン市およびその近郊の民事訴訟についての方針づくりの特別顧問でした。本状の執筆者は、アデナウアー博士の公明正大さと、彼の人格および職が体現する寛大で民主的な理想を高く評価するものです。
敬具
パターソン、書信電報COC
コンラート・アデナウアー、回想録1945年-1953年、Hachette, 1965年
* ホワイト・リスト 連合国が作成した、第三帝国に関係しなかった人物のリスト
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「あなたは、捜索の情報をお持ちですか?」多数の行方不明者を前にして、いくつかの「捜索機関」が設置された。赤十字の捜索局は2005年現在も存在する。

亡命者の帰還「6,000人の海外流民が1947年にChemnizに居住することになる。彼らに新しい祖国を与えよう!」Chemniz(ザクセン州)に張られた、亡命者を受け入れを呼びかけるポスター。ソ連占領地区では、「海外流民」という表現となっている。
<学習の足跡>
1.戦後ドイツ国民は、どのような問題と脅威に直面したでしょう。
2.資料を分類し、「零年」と言う表現が、さまざまな状況のもとでどのように適用されたか確かめなさい。
(結論として)
3.資料

は、撮影者不明の写真です。アメリカ兵だと推測されますが、どのような理由でこの写真をとったと思いますか?
4.写真を撮った兵士が、この写真を添えて、ドイツの状況を描写した手紙を家族に送ることを想定して、手紙の文面を作成しなさい。
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