第二次世界大戦の記憶は今日、価値が対立した諸国民を、共通な価値の周りに結集させることができるか?
ドイツ連邦共和国は、ノルマンディ上陸の60周年記念行事に招待された。2004年6月6日、カーンでおこなわれた式典における、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相とフランスのジャック・シラク大統領。
戦勝国と敗戦国 1945年各国は、第二次世界大戦の終結を、それぞれのやり方で祝おうとした。西側連合国にとっては、5月8日がナチスの全体主義にたいする民主主義の勝利を象徴する日付である。ソ連では5月9日に「大祖国戦争」の終結を祝ったが、スターリンはそれをロシア愛国主義の勝利と位置づけた。少し前までドイツ軍によって占領されていた国々は、勝利の日を国民の解放の日として祝い、レジスタンスを賛美した。
ニュールンベルグ裁判(1945年)と東京裁判(1948年)の結果として、敗戦国は戦争中に犯した犯罪を認めるよう強く求められた。日本では、天皇ヒロヒトおよび彼を介して日本社会の全体の責任問題は、1989年の彼の死までタブーとされた。そしてドレスデン空襲とヒロシマの想起は、ドイツと日本の軍隊が犯した暴虐を過小評価する
[ 歴史 ] 修正主義的な術策に利用された。
過去の再解釈 1960年からの世代交代は、過去の批判的見直しをもたらした。ヨーロッパやアメリカにおいては、ユダヤ人のジェノサイドの遂行の責任問題に集中した。ドイツ軍の占領の記憶は、論争を引き起こした。フランスではヴィシー体制が、オーストリアでは
「ワルトハイム事件」が論争の種となった。
犠牲者のいくつかのグループは、自分たちに加えられた特別の苦しみの記憶を、以前にも増して抱き続ける。それはナチスの残忍な行為の犠牲となったユダヤ人やジプシー、ルーズヴェルトによって収容された日系アメリカ人、スターリンによって強制収容所に送られたソ連の人々の場合である。多様な犠牲に捧げられる記念碑や式典は、こんにち第二次世界大戦の記憶が分節化していること表している。
東欧においては、ファシズムにたいする国際主義の勝利というスターリンの神話は、ソ連ブロックの崩壊とともに砕け散った。1990年になってM.ゴルバチョフが、1940年にカチンの森においてソ連軍がおこなった、4,500人の将校を含む20,000人以上のポーランド人の虐殺を、公式に認めることを決断した。
国を超えて―戦争の記憶の国際化 冷戦が終わってから公式な記念式典は、平和と民主主義の旗の下に勝者と敗者が 2004年のノルマンディ上陸60周年記念式典には、ドイツ首相がはじめて参加した。勝利の愛国的称賛は、戦争の犠牲者たちを「記憶する義務」の要請に席を譲った。
しかし戦争の記憶は、時には結集するどころか、分裂することもあった。日本が公式にアジア諸国にたいして、占領した日本軍が犯した残虐行為ついての謝罪を表明したにもかかわらず、についての謝罪の意を表明したにもかかわらず、中国においては戦争の記憶は、根深い反日感情をかき立てている。
独ソ不可侵条約の記憶から、リトアニアとエストニアは、2005年にロシアが開催した5月9日の [戦勝] 式典への招待を断った。
<用語の説明>
ワルトハイム事件 1972年から1972年のあいだ国連事務総長、1986年から1992年のあいだオーストリア共和国大統領であった、クルト・ワルトハイムの過去についての議論
独ソ不可侵条約 1939年8月23日に、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連との間に交わされた不可侵条約。ポーランドとバルト諸国の分割が秘密議定書に含まれていた。
<鍵となる概念>
[ 歴史 ] 修正主義―フランスでは、ガス室とジェノサイドの存在を否定する試みを意味する。ドイツでは「修正主義」は1960年から、否認主義とはいっさい関係なく、歴史家による第三帝国についてのそれまでの歴史学の見直しが提起された。
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