共産主義者の記憶1941年シャトーブリアンにて、ドイツ将校を襲撃した報復として処刑された27人の人質を記憶するための、1950年代のポスター。
フランス解放についてのゴーリストの記憶1940年シャルトルの知事であり、その後レジスタンス国民会議議長をつとめたジャン・ムーランは、1943年にドイツ人によって逮捕され、クラウス・バルビーによって拷問死させられた。
「1942年1月1日、ジャン・ムーランがフランスにパラシュートで降り立ったとき、レジスタンスにはまだ、無秩序な勇気しかなかった。[…] 確かにレジスタンス活動家は、連合軍に忠誠を誓う戦闘員であった。しかし彼らは、抵抗するフランス人からフランスのレジスタンスになりたかったのだ。
したがってジャン・ムーランはロンドンに渡った。[…] ド・ゴール将軍のみが、レジスタンス組織に、組織内そして他のすべての戦闘員の統一を求めることができたのである。なぜならば、フランスが戦いを束ねることを委ねることができるのは、彼をおいて他にいなかったからである。[...]
ルクレールは、アフリカの太陽の下で、アルザスの戦闘で勝利し、士気旺盛な彼の隊列を率いてアンヴァリッドに入った。ジャン・ムーラン、君は君の悲痛な隊列とともにここに入るのだ。君のように口を割らずに地下室で死んでいった者たち、そして口を割ったにしろ、より残忍な仕打ちを受けたであろう者たちとともに。縞の入った服を着せられ頭を刈られた強制収容所のすべての人びと、「夜と霧」のあの目を背けたくなるような人の列の、よろめき、ついには力尽きて銃床の下に横たわった身体とともに。そして強制労働から戻らなかった8,000名のフランスの女たち、我々の一人を匿ったためにラーフェンスブリュック強制収容所で最後に亡くなった女性とともに。闇から生まれ闇とともに消えていった人びと、すなわち我々の兄弟たちとともに、「夜」の秩序の中に入るのだ。
若者よ、今日、最後の日を語るあの悲しげな顔に、一言も洩らさなかったこの唇に手を近づけたとき、この男について思いを馳せることができるようになれ。あの日、あの悲しげな顔が、当時のフランスの表情だったことを・・・」
アンドレ・マルロー、文化大臣、「1964年12月19日、パンテオンにおけるジャン・ムーランの遺灰の安置」、追悼演説、Gallimard、1971年

親衛隊将校、クラウス・バルビー
1983年、ボリビアからフランスに引き渡された。「リヨンの屠殺人」と呼ばれたクラウス・バルビーは、1987年フランスの裁判を受け終身禁錮刑を言い渡された。1991年に刑務所で死亡。

民兵、ポール・トゥヴィエ
元リヨンの [ 対独 ] 民兵組織の責任者ポール・トゥヴィエは、1989年ニースで逮捕された。1994年、7人のユダヤ人人質を処刑したとして終身禁錮刑を言い渡された。1996年フレンヌ監獄で死亡。

高級官僚、モーリス・パポン
戦時中ジロンド県の事務局長、第五共和国で警視総監および予算大臣をつとめたモーリス・パポンは、裁判を受けた唯一の高級官僚で、1,690人のユダヤ人をドランシー収容所への移動を監督した罪で、1998年に10年の禁錮刑を受けた。
<学習の足跡>
1.第二次世界大戦の記憶は、1950年代のフランスではどのように称賛されたでしょうか?占領時期の選別された記憶とは、何に関わることでしたでしょうか?
2.ジャン・ムーランの象徴的な表情を通して、アンドレ・マルローが称賛しようとしたレジスタンスのイメージはどのようなものですか?
3.フランスでは、人間性に対する罪はどのような状況のもとで告訴されましたか?戦争直後おこなわれた告訴とは何が違いますか?あなたは、裁判が歴史家の研究に有利に作用したと思いますか?
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