ヴィシーの責任の隠蔽1956年にアラン・レネが制作した「夜と霧」は、ナチスの強制収容所の世界を最初にとり上げた、ドキュメント映画の大作であった。ピティヴィエ強制収容所の前で勤務につくフランス警察が映っている写真は、フランス当局によってカットされた(憲兵の警帽ケピは黒帯で消された[写真左上])。
解放されたゼノサイドの生存者のうち、自分たちが受けた苦しみを語りたいと思っていた人は、当時語られていた以上に多かった。しかし彼らを待っていたのは、どちらかといえば彼らの証言に無関心な社会であった。したがって彼らは、口を閉ざすしかなかった。
ユダヤ人の強制収容所の記憶が公然と語られるようになったのは、1960年代に入ってからである。ショアが歴史に例を見ない残虐行為であることを主張し、その記憶がありふれたものになっていくのを防ぐために、語り始めたのである。それいらい強制収容所の記憶はフランス社会に大きな反響を呼び起こした。責任をヴィシー体制に封じ込めるのではないかという危惧が高まり、ついに煮え切らないフランス当局に、ナチスの犯罪行為の遂行にフランスの行政機関が加担したということを、公式に認めさせるに至った。
フランスのために死ぬこと当時フランス共産党に近い二人の作家が、フランスのユダヤ人が共有した幅広い立場をここに描いている。
ヒトラー主義者よって、スケープ・ゴート、大衆の敵の筆頭にあげられたユダヤ人は、他のフランス人より高い税金を、情け容赦もなく取り立てる圧制者に支払わなければならなかった。この理不尽な格付けを、殉教の根拠にしようとはしなかった。彼らは圧制者に対し、フランス国民として義務を果たした。祖国の子であるのは当然と考えた。こうした行為は、多数見受けられた。しかしフランス人であることを繰り返し口にせざるをえないことは、彼らにとって苦痛であった。
彼らをフランスから引き離そうとする敵に対して、レジスタンスに参加して徹底的に戦ったユダヤ人もいた。最も敵の標的になったユダヤ人たちは、フランスのためだけでなく、もっと大きな理想のために闘った。自由のために。[…]
前者、すなわちフランス人であった者、フランス人であろうとした者はすべて、精神の自由を他の者に任せることしか求めなかった。[…]
Jacques DarvilleとSimon Wichené、ドランシー、ユダヤ人または第二の異端審問、1945年
スポンサーサイト
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/756-70468993