ドイツの過去に対する悔悟ワルシャワ・ゲットーの戦士の前に跪くヴィリ・ブラント西ドイツ首相
いかにしてドイツ社会は、ナチズムの犯罪の責任を負うことによって、第二次大戦と向き合うことができるか?
二つのドイツ、二つの記憶 ドイツが二つの国家に分かれたことにより、1945年以来、ドイツでは戦争について二つの記憶が対立した。アメリカは西ドイツを再建させるために、1948年3月に脱ナチズム化を終了させた。有罪を宣告された者の大部分が、1950年末までには釈放された。この時代のドイツ人は、何よりも自分を戦争の被害者としてとらえ、ヒトラーと親衛隊のナチス体制によって犯された犯罪の責任から目をそらすことによって、
第三帝国の記憶を拒絶する傾向にあった。
ドイツ民主共和国は、自国での「ドイツ・ファシズム」に対する勝利を強調することによって、ドイツ連邦共和国を、ナチズムを継承するものとして非難した。1958年、共産主義体制によって、ブッシェンバルトの強制収容所のなかに建てられた最初の記念碑は、反ファシストのレジスタンスに捧げられた。
脱ナチズム化は西ドイツよりも徹底されたが、記憶を発掘し保存する作業は、東ドイツにおいては1990年の再統一までほとんど手つかず状態であった。
過ぎ去ろうとしない過去 1950年代の終わり頃から西ドイツの世論は、ナチスの犯罪の想起に敏感になってきた。1958年にルードヴィッヒスブルクに国家社会主義者の犯罪に関する中央捜査局が設立されたことは、ナチスの元責任者にたいする法的追及と裁判の再開を可能にした。
東側諸国への接近政策(東方政策)は、1970年社会民主党のヴィリ・ブラント首相がワルシャワ・ゲットーの戦士の記念碑の前でとった行為にみられるように、公式に悔悟をあらわす行為をともなった。
1960年代、若者の保守的価値にたいする異議申し立ては、過去に対する根本的な批判に依拠するものであった。新しい世代の歴史家たちは、ドイツ社会の大部分が国家社会主義体制の機能に巻き込こまれたことを強調することによって、彼らの時代の再評価を試みた。1978年に大きな視聴率を獲得した「ホロコースト」のシリーズは、この問題につきまとっていたタブーと沈黙を取り除く役割をした。
いつまでも悲痛の思いを引きずる国民 しかしながら、ナチス時代を喚起する論争が繰り返されるということは、ドイツ人が全体としてまだ、戦争の辛い記憶を引きずっていることを示している。1986年、哲学者であるユルゲン・ハーバーマスは、日刊紙「ツワイト」紙上で愛国的なドイツ歴史観を批判し、
「歴史家論争」を引き起こした。1996年に出版されたアメリカ人ダニエル・ゴールドハーゲンの著作「ヒトラーの自発的な死刑執行人」は、ナチス党員や狂信的な反ユダヤ主義者だけではなく、全てのドイツ人について触れており、多くの異議を呼び起こしたにもかかわらずベストセラーとなった。
1998年、メディアの間でのアウシュヴィッツのテーマの氾濫は、無気力と意見表明の拒絶を引き起こしているとする作家マルティン・ヴァルザーの発言は、反響を呼んだ。極右も飛びついた同種の論争が起こり、統一後のベルリンの中心部に、ホロコーストの新たな記念を建立するきっかけとなった。今日、記憶する義務の要請は、以前に比べて広く認められている。戦争の記憶は、ドイツ国民の共有するところとなっている。戦争の記憶をもつことによって、ドイツ国民は民主主義および欧州連合への敬愛を表すのである。
<用語の説明>
東側諸国への接近政策(東方政策) 1969年からドイツ連邦共和国が社会主義国家である東ドイツとあいだに、両国の相互理解の土台となる新たな関係を築こうとする政策。
「歴史家論争」 ドイツ現代史における国家社会主義の位置づけ、およびスターリニズムの犯罪とナチズムのそれとの比較について、1986年に知識人と歴史家たちのあいだに起こった激しい論争。
<鍵となる概念>
脱ナチズム化 国家機関や社会からナチスの要素を取り除くために、連合国によって推進された政策。
第三帝国 ナチスのプロパガンダによれば、今後1000年続く新しい帝国を築いたとする、ヒトラーの体制。
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