自らの過去と向き合うドイツ「アウシュヴィッツ解放から60年、
千年の罪および質問―我々はまだ責任を負わなければならないか?」
Stern誌2005年1月号の表紙とアンケート結果

<上段>
「私たちドイツ人は、現在においてもアウシュヴィッツの責任があると思うべきですか?」
「はい」――
20%「いいえ」―
74%<下段>
「ドイツ人はユダヤ人にたいして、いまだに個人的な責任を負っていますか?」
「はい」――
47%「いいえ」―
48%残ったパーセンテージは無回答。Stern紙2000年1月号より
ドイツでは、ショアの犠牲者について記憶する義務の要請については幅広いコンセンサスがある。問題はこの要請がいかにして若い世代に伝えるべきかである。若い世代は前の世代とはちがって、第三帝国下で遂行された犯罪に、もはや責任を負うとは思わない。
その一方で、1950年代末いらい、ドイツ人の共同責任に重点を置いた戦争についての国の公式な記憶は、とくに第二次世界大戦の戦時下および戦後にドイツ人が耐えた苦しみを伝えようとする家族的記憶を、決して消し去ることはできなかった。今日ドイツ人は、以前のようにホロコーストをありふれたものにし、歴史における責任を軽減したとして非難されることもなく、自分たちの犠牲者に敬意を表することができるのだろうか?かくして1990年代以降、敬意を表する対象は、市民や軍人の戦争犠牲者の運命となり、激しい論争の種を提供するゼノサイドの問題ではなくなった。
なぜ忘れないことが最も重要なのか?我々にとって5月8日はなによりも、人びとが苦しまなければならなかったことを思い出させる日です。私たち、ドイツ人にとって5月8日は、祝日ではありません。1945年のこの日に現実に居合わせた人びとにとっては、すべては個人的な記憶であり、したがってそれぞれの記憶はまったく異なっています。
家に帰る人びとがいる一方で、家庭を失った人びとがいました。ある人びとは解放され、他の人びとは捕虜生活が始まりました。5月8日は解放の日です。私たちは皆、非人間性から、そして国家社会主義体制の虐政から解放されたのです。5月8日は、記憶する日です。
記憶すること、それは誠実に、そして歪曲することなく思い出すことです。目を開き、耳を傾け、情報を集めようとした人は誰でも、ユダヤ人が強制収容されたことを知らないはずはありません。ホロコーストの言語を絶する真実が明らかになったとき、私たちの極めて多くの部分が、何も知らなかった、何も気づかなかったと主張しました。新しい世代は、政治的責任を引き受けるために大きくなりました。若者たちは、40年前に起こったことに責任はありません。しかし彼らは、これらの行為による歴史的結果については責任があります。私たちは、若者たちが、なぜ忘れないことが最も重要であるのかを理解するのに手を貸さなければなりません。5月8日、私たちはできうる限り注意深く、真実を直視しましょう。
1985年5月8日の記念式典における、ドイツ連邦共和国大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの演説。Dennis L. Bark とDavid R. Gress の共著「1945年以降のドイツの歴史」、Robert Laffont 、1989年から抜粋。
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