トップ記事となったドイツ国防軍の犯罪(1997年)「ドイツ国防軍の犯罪」についての記事に第1面を割いたドイツの週刊誌は、東部戦線において遂行された暴力にたいするドイツ人の共犯についての論争に火をつけた。
ドイツ人は、再び「顔を上げて歩き出さ」ねばならない
1978年から1988年までバイエルンの州首相をつとめたフランツ-ヨゼフ・シュトラウスは、長い間キリスト教社会同盟 (CSU) の党首であった。
ドイツ人の罪状をほんのわずか否定することなど、私にとってはどうでも良いことである。しかしそれを他人の罪だとして自分の記憶から消そうとしたり、逆にドイツ人が遂行した悪業を決して忘れないようにしようとする態度を、私は受け容れることはできない。ここには二つの秤があり、そしてドイツ人の罪を永続させるのである。
私は個人的には第三帝国に巻き込まれていないし、それに関係あるとは思っていない。同様に、ドイツ人民の「共同の罪」という表現を常に拒否してきた。[…] 私はナチズムに対しては、深い憎悪の感情を持っていた。しかしヒトラーの策略を瞬時に遮らなかった西ヨーロッパの列強に対しても、強い恨みの感情を抱いていた。[…] のちに、私はドイツに対する激しい爆撃に抗議した。私は、ドイツの名によるドイツ人によって犯された犯罪の、規模と非人間性によって傷つけられた。しかし個人的には、非難に値するどのような行動について自分を咎めるものはなにもないので、政治活動において私は自由であると感じる。もし私が、ドイツ人は頭を上げて普通に歩くことを学び直すに違いないと確信するならば、それはドイツ人の罪を退けることとは何の無関係もない。そして我々の国際的な責任が問われているときに、我々の過去を想起することによって、自らをその義務から遠ざける権利は我々にはない。
フランツ-ヨセフ・シュトラウス、「記憶」、ベルリン、1989年
アウシュヴィッツ―ドレスデン:死刑執行人と被害者とを混同する危険
10年ごとにショアの記憶は変化してきた。しかしとりわけ1995年から2005年までに見られた変化は、際だっている。10年前、戦後のタブーはたちまちに崩れ去った。その時からドイツでは、アウシュヴィッツのテーマはほとんど論争の場から消えた。問題は和らげられ、そして決着さえしたかのようである。説明がつかないほどの残虐行為が、決着したのだろうか?1995年からの10年間は、他の事件に注目が集まったので、いっそうかすんでしまった。ドイツ人は犠牲者である限りにおいて、自分たちの歴史について語る。そして自分たちの流儀で哀悼を示す。終戦直後、[ドレスデン] 空襲と[公職] 追放は、大いに人びとの話題に上った。[…] 1960年代に入ると反対に、歴史修正主義の疑惑があるのではないかと指摘され、その疑惑が正しいとされた。しかしながら、アウシュヴィッツは、隠蔽されたり、放逐されたり、疑問視されたりすることはないが、ドレスデンが絶えず想起され、前景に押し出されるのに対して、背景に押しやられた。アウシュヴィッツが、歴史のなかで他と一括りにされる怖れは依然としてある。それはドイツ国家民主党NPD[極右政党] の登場を待つまでもない。たしかに否定されたり、人びとの心の内奥でぐらついたりすることはもはやあり得ないが、犠牲者としてのドイツ人と死刑執行人としてのドイツ人がほとんど同格で扱われる。
Bernd Ulrich, 「時代」、2005年2月
<学習の足跡>
1.ヴァイツゼッカー大統領にとっては、1945年5月8日の式典をおこなう意味は、どうあるべきなのでしょうか?20年経った今[2005年]、この演説はいまだに若い世代に理解されうると思いますか?
2.ドイツ国防軍の犯罪について特集した雑誌の表紙について、あなたはどのように説明しますか?
3.フランツ-ヨセフ・シュトラウスは、ドイツ国民の共同の罪の考えにたいして、どのように反論しましたか?
4.バイエルンの指導者[フランツ-ヨセフ・シュトラウス] とヴァイツゼッカー大統領の発言を比較して、一致点と相違点を明らかにしてください。
5.ショアの記憶は、最近のドイツではどのように展開しましたか?ドレスデンにたいする連合軍の空襲の記憶は、なぜ今日においても論争の対象になっているのですか?
<結論として>
6.ドイツ人の自分たちの過去についての態度は、この20年間でどのように変化しましたか?
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