<評価>
1.子どもたちは、他の本を読むときも、違うこと、人種差別、連帯といった概念を使うことができるのでしょうか?子どもたちに、Yvan PammauxのClaquila, Krok et Porképikを読むことを勧めましょう。そしてこの本について討論し、他の人に説明することを。
2.生徒たちは、この本に出てきた、自分たちと違う他人、外国人にたいして心を開くという価値に同意したでしょうか?授業の終わりに、これまでの授業の到達点を確認するために、もういちど最初におこなった三つの質問をしてみましょう。(あなたがなりたい登場人物、あなたがもっとも好きな登場人物、あなたがもっとも嫌いな登場人物)。子どもたちが登場人物を感じたままに答えるのは自然なことです。強い、かっこいい、頭が良い、おもしろいというように(飛べたり、泳げたりできるペリカン、彫刻することができる二枚歯、おもしろい菩提樹のようになれたらいいなと思ったことでしょう)。しかしもし授業の終わりでも意見が変わらない場合、他人に心を開くという価値、そして連帯という価値は、もっとも重要なものとして受け取られなかったことになるでしょう。
3.生徒たちが書いたものも、これらの価値についての彼らの態度を窺うことができます。たとえば28ページ(動物たちの抗議集会)の吹き出しへの書き込みです。子どもたちはその場面を演じることで満足していないでしょうか(あいつはおれたちを困らせた、うるさくした、おれたちの魚を食った、あるいは他の何匹かがつかったよそ者嫌いの表現、みんなあいつを好きじゃない、それはあいつがここにいる理由がないからだ)?あるいは子どもたちがこの場面を拡大適用したり、子どもたちが他のところで耳にした、よそ者に対する恐れのステレオタイプを、この場面が強める働きをするのでしょうか(私たちの生徒たちを守らなければなりません。それは伝播するのです)?


47ページの場面では、態度はより開放的ですが、どっちつかずになっています。よそ者は、いま住人たちに受け入れられています。でもペリカンたちの侵入は、これから問題になるのでしょうか?生徒が書いた吹き出しの台詞は、かれらの態度をよくあらわしています。偏見やステレオタイプの人種差別主義に戻るのか、あるいは問題を意識しながらよそ者を受け入れるのか?
<リンチ>
アメリカの映画の中で数多い西部劇の中には、南部の黒人奴隷制度擁護者による、リンチと呼ばれる強烈なシーンがでてきます。リンチは迅速な略式裁判とされ、私的な裁きの決定、あるいは群衆が自ら裁き手、つまり死刑執行人になることによっておこなわれます。それはなによりも裁判の茶番劇です。なぜならば、有罪あるいはそのように推定された犠牲者は、正常な裁判をける環境にもなく、有効な弁護も受けられず裁かれるからです。刑の執行方法は縛り首です。
リンチという言葉は、有名なLynch法から来ています。Charles Lynchは、ヴァジニア州の農業主(地方判事でもあった)で、法的な手続きを経ない私的裁判の形式をつくりました。この驚くべき私刑は19世紀を通して、あるいはそれを超えて続きました。とくに黒人は、現代では些細なことと思われることを理由にして、しばしば狙われました。
Andre Segfriedの「今日のアメリカ合衆国」では、次のように書かれています。「劇場で一人の黒人が怒り狂った群衆によってリンチされた。その理由は、客席の白人専用の座席に座ることを主張したからである」。
スポンサーサイト
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/804-d83ff188