活性化への言及
ここでは状況―問題点は、根本的に対立する二つの観点を対比することにある。ドレフュス派と反ドレフュス派は、新聞による大規模なキャンペーンを通して対決した。生徒たちはふたつの部分に分かれて、対立する各々の新聞の切り抜きを渡される。
資料を検討し、ドレフュスについて人物像をつくり、ドレフュスに対する見方を対決させなければならない。この二つの人物像の対決は生徒にとって衝撃であり、この人物の実像、そして教師が提供した証言の有効性について自問するようになるはずである。対決する過程で、情報を分類することによって、ある者は法により、他の者は人種差別により対処しようとすることに気づくであろう。別の言い方をすると、ドレフュス事件はいくつもの観点から見ることができる。たとえばドレフュスが犯人であるか否かを知るという観点、それを超える何かが賭けられているという観点など。実は外国人嫌いや反ドレフュス派の議論、すなわちフランスが民主主義社会であるか否かを知る観点、少なくとも、当時この問題を考えるときに使った言葉が、今日我々が使っている言葉であることが重要なのである。
有効な対決の授業、それに続く補足資料(イタリア出身であることから反フランスであると非難されたゾラに対する攻撃、ジュール・ルナールのそれに対する反論など)は、ドレフュス事件のすべての側面を理解させることができる。もしゾラの手紙「われ弾劾する」が学校の教科書の中にないとしても、生徒がこの新聞の第一面を見ること、そしてその手紙が1年間の禁固刑に値するものであったということは重要であると思われる。
それゆえ授業の活性は、教師がドレフュスの無実を証明することではない。そうではなく、教師が生徒とともに、この事件に賭けられたものが、変わることのない指標として国民の記憶の中に残っていることを確認することである。
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