除去作業員たちは、罹災した発電所付近の除染に専念する。
住民を復帰させるという不条理な希望をもってリベラシオン紙 1月29日付
「私の土地を愛している。除染は義務だ。私はここを離れないし、何もしないでいられない」。2011年3月に日本の東北地方を襲った三重の災害のほぼ2年後、元造園技師のタカオ(47歳)は、福島の農村部を担当する除染作業隊に加わった。原子力発電所から40キロ離れた伊達の農村で、彼が所属する班は地面を削り、小さな白い家に陰をつくっていた松の枝を落とす作業を終わったところである。丸裸になった松は、その滑々した幹を紺青色の空に向かって聳え立たせ、痛ましい光景を現出させた。作業の前、ガイガー計数管は毎時3マイクロシーベルトを示していた。OMS(年間1ミリシーベルト)による年間の許容線量の26倍である。それ以後線量は低くなったが、それでも基準の10倍である。
地震や津波によって受けた傷が復興によって癒されるにしても、原発事故による傷はべつのものである。村、畑、森と川、家と公共施設など。すべてが福島第一原子力発電所から出た放射能に汚染されている。セシウム134、137といった放射性元素が、木の梢、道路、屋根、野菜畑などに付着している。あの当時のチェルノブイリのように、再生の可能性をもとめて、何よりもまずこの汚染された自然を除染しなければならない。
この小集落には、白のつなぎで身を包み、顔をマスクで覆い、大股で歩き回る除去作業員たちの他はだれもいない。彼らの任務は?自然を洗い流すことである。パワーショベル、スコップ、ツルハシで、地表、植物、苔、枯れ葉を取り除くことであり、高圧洗浄機抱えて屋根や公共施設を洗い、溝の中の堆積物を掃き出すことである。農民、職人、サラリーマンなど、その大部分が志願した地元住民の数千人が、汚染廃棄物の処理作業の現場に組織された。42歳のイサミも、その一人だった。彼は畜産業を営んでいたが、監督官庁が牛乳や牛を市場に出すのを禁止して以来、仕事が嫌になってやめた。「一日中ショベルカーで、5~7センチほど地表をはぎ取る。ショベルカーが入らないところは、手作業でやる。スコップで穴を掘り、川岸の草取りをする。長時間労働だ」。住居の除染計画では、実に5年間を必要とする。「優先するのは、子どもが活動するところ、遊び場、校庭、庭です」と、県から仕事を任されているカガヤ・ヒロアキは説明してくれた。
<森>
2012年、行政はこの途方もない除染作業に、27億ユーロを充てた。「400平米の敷地を持つ家一軒の作業が2週間かかり、10,000ユーロが必要となると、役所では見積もっている。住居が終われば森林や川の除染作業に入らなければならない。それは遥かに長い期間を要するのである!」それもどうやら不確かなものである。汚染を除去するには、移動させる他に手がないからである。回収した放射性廃棄物は、番号が付いた大型の袋に詰め込まれ、あちこちの空き地、たとえば畑あるいは校庭に積み上げられる。最終的な貯蔵の前に、この地方の2カ所の用地、そして最も危険度の高い廃棄物のための第3の場所―まだ確定されていない―が用意される。
いくつかの非政府機関は、この努力は無意味であるという。放射性元素は、この地域の75%を占める森林の上に拡散し、土や水田に流入する川に浸透する。ちょっとしたにわか雨によっても表出し、水流によって押し流される。2012年7月、[フランスの] 放射能に関する調査・情報提供の独立委員会Criradが、除染作業の6ヶ月後に除染済みの家屋の内部で測定したところ、世界保健機関の基準の6倍に及ぶ年間放射線量を記録した。「これは、除染がどれほど不十分であるか示している」と、CriradのBruno Chareyronが最終的な避難を推奨する彼の報告の中で述べている。住民が汚染されていない地域に引っ越すことを援助すべきだろうし、また彼らに帰還を約束してはならないだろう。にもかかわらず、帰還が問題になる。2014年に家に帰ることができるのは、せいぜい数家族であろう。放射線量ができるだけ低いこと、年間1~5ミリシーベルト、さらには10ミリシーベルトであることがその条件となる。「住民の帰還は、放射性堆積物の放射線量の水準によって決まる。何よりもまず、この水準を低くしなければならない。しかし年間20ミリシーベルトを超える地域についても、それほどたいしたことはない!」と、放射線防護・原子力安全研究所IRSNのPhilippe Renardは説明する。彼としては、もし家に帰りたいと望むならば、それを決めるのは日本人各自であるということである。「10ミリシーベルトは、CTスキャナーをしたときと同じ値である。もし自分が根無し草だと考える人が、この危険を冒して家に戻りたいと望んだときに、それを妨げる理由がどこにあろうか?」
ホット・スポット
なぜならば、地方の役所や何人かの科学者にとっては、住民が汚染地区で暮らすことは、今後予想されることである。口にする物や、踏み固める場所や、放射線量が極めて高いホット・スポットを避けることに注意をすれば十分である。菅野典雄は、帰還を夢見る。7千人の住民がすべて避難所に四散した飯舘村の村長である彼は、村民に現地での新しい生活は可能であると説く。「もちろん、完全に前のようにはいかないだろう。しかしそれを信じなければならない」と。飯舘村では、除染した土地に稲を植え直した。「米は食べてもだいじょうぶである。問題は、日本中の人びとに、福島産の米を買うよう説得することである」と、メディア―とりわけ外国の―が、国民の心配につけいるのではないかと疑っている村長は心配する。「今年の年末には、みんな自分の家に帰れるだろう」とひときわ大きな声で言った。県は、より慎重になることを望んでいる。「住民が戻るためには、放射線量の値が充分に低くならなければならない。それだけでなく、インフラを復旧し、商店を開き、職を提供しなければならない」と、カガヤ・ヒロアキと考える。要するに、生活を再び築くことである。
LAURE NOUALHAT 福島特別特派員
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