13年前からブローニュ・ビヤンクール市の主催で、市内の青年たちが強制収容所を訪れている。このツアーは、青年たちに特別な感銘を与える。3月15日、市内の公立および私立の生徒109人が、3人の元囚人*であるYvette Broder、Yvonne Lévy、Maurice Clingとともにアウシュヴィッツを訪れた。僕もこのツアーに参加した。
* ブローニュ・ビヤンクール市から104名が、強制収容所に送られた。
集合は、午前4時30分に市役所前だった。このツアーを企画したのは、全国強制収容者・収監者・レジスタンス活動家・愛国者連盟FNDIRP のRobert Créange代表で、彼は事前に僕の学校に来て、歴史を説明してくれていた。それでもまだ実感が湧かない。ぼくはこのツアーに参加するのが、少し不安だった。だって、どんなことが僕を待ちうけているのか、少しも知らないのだから。さいわい僕のクラスメートと一緒にいることが、僕を心強くした。僕は仲間と一緒の席に座った。みんな何でもないかのように、話したり音楽を聴いたりしていたが、自分たちの不安を隠しているんだ。バス、空港、ナベット、飛行機、初めての空港、初めてのバス。そしてラジオ放送が変わる。言葉が理解できない。いま9時だ。一時間後には、収容所に着くだろう。僕にとっては、そこは歴史の本にしかすぎない。
無理解をはるかに超え
僕たちはまず、ビルケナウの収容所に訪れた。僕はガイドのWaldeckさんの話しと、イヴェットさんの解説を聞いた。彼女は、僕ぐらいの年齢のとき、この収容所に閉じこめられたのだ。積もった雪と寒さが、彼女がどんな生活をしていたのか、想像するのを助けてくれた。僕の履いている布地のバスケットシューズだって、寒さを防げない。足の先が凍えてきた。彼女は、どうやって耐えていたのだろう?共同の寝室、トイレを見学した。イヴェットさんは、この有刺鉄線の中での日常生活を語ってくれた。つらい体験の話しになったとき、僕はイヴェットさんの目から視線を外し、足下ばかり見つめていた。でも見たり理解しなければならないことは、こんなにもあるんだ。
話しを聞いたけど、でも僕には理解できなかった。どうして人間はこういうことができたんだろう?どのようにして生存者は、こんな条件のなかで生き残ることができたんだろう?僕たちは、記念碑の前で思いを凝らした。Vieux-Pont中学とNotre-Dame中学の何人かの生徒が、強制収容所に収容された人びとを詠った国際的な賛歌であるchant des Marais を歌った。僕は、重苦しい気持ちになった。僕は、一本のローソクに火をつけた。それは僕たちのグループの思いをひとつにしたものだ。イヴォンヌさんは、雪の中を長い間歩いてきたので疲れていた。何人かが彼女を抱えた。そしてみんなが笑った。この突然の出来事は、僕の気分をほぐしてくれた。
恐怖の果てに
14時になって、僕たちはアウシュヴィッツを訪れた。ここは全てがそのまま残っていて、整えられ、すべてが清潔だった。僕には、ここが絶滅収容所であったことが信じられなかった。肖像写真を見ても、ガイドの人の説明を聞いても。ナチスが保存させたという髪の毛を見るまでは。心の準備ができていなかった。そしてあの靴、眼鏡、トランクの山。突然、歴史が、生々しく、実在するものとして、具体的で、恐ろしいものとして現れた。これは、あんまりだ。僕たちの見学は、ガス室と死体焼却炉を見て終わった。僕は実感できないように思えた。僕はそれほど解ったとはいえない。解りたくない。一日が終わり、空が夕陽で赤くなった。もうじき収容所は閉まるだろう。僕たちはバスに戻るために足を速めた。僕は、2号車のバスに乗りこんだ。そして信じられないことが起こった。僕は他の生徒と歌い出したのだ。そして笑いさえもしたのだ。そう。まるで苦悩と死と隣り合わせだった一日が終わり、僕のエネルギーのすべてが、僕の呑気さが、ぼくの軽率さが、戻ってきたんだ。僕は17歳、僕は生きている。
死体焼却炉
イヴォンヌ(左)とイヴェット(右)
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