加藤周一は広島への原爆投下後、医学調査団の一員として広島に派遣された。これは彼が、目に心に焼き付けた広島の光景です。
広島
1945年8月6日の朝まで、そこには、広島市があり、爆撃を受けなかった城下町の軒並みがあり、何万もの家庭があって、身のまわりの小さなよろこびや悲しみや後悔や希望があったのだ。
その朝突然、広島市は消えて失くなり、市街の中心部に住んでいた人々の大部分は、崩れた家の下敷になり、掘割にとびこんで溺れ、爆風に叩きつけられて、その揚で死んだ。生きのびた人々は、空を蔽う黒煙と地に逆まく火焔の間を郊外へ向って逃がれようとして、あるいは途中で倒れ、あるいは安全な揚所に辿り着くと同時に死んだ。さらに生きのびた人々も、田舎の親類家族と抱合い、九死に一生を得たよろこびを頒つと思う間もなく三週間か四週間の後には、髪の毛を失い、鼻や口から血を流し、やがて高熱を発して、医療の手もまわらぬままで死んでいった。それから二ヵ月、辛うじて難を免れた人々は、親兄弟を失って呆然とし、みずからも「原爆症」の恐怖に怯えて、追いたてられた獣のように、あてもなく焼け野原を歩いていた。もはやそれは嘗ての広島市民とは別の人間であり、あたかもそのことが無かったかのように、彼らが以前の入間にたち戻ることはできないだろうと思われた。
加藤周一「続羊の歌」より (改行は投稿者)
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