敗戦まで
[前略]
予科練の全員志願はそんな状況の中で行なわれたのだが、私がいまだに後悔するのはそのときに国を憂うる正義派ぶって級友たちをアジったことである。たまたま級長をしていて仕方なかったということもあるが、検査に合格した何人かは乗る飛行機もなくて戦後無事に復学したからいいが、何かがあったら仕方ないでは済まなかったろう。このときの全員志願は校長先生、担任教師という経路で指示がきたように思う。校長さんは
真木勝校長。陰轡な顔をした東大出の国粋主義者だった。
昭和二十年になると、荘内地方にも艦載機のグラマンが姿を現わした。そして8月15日の終戦のラジオ放送を、私は役場の控え室で聞いた。放送が終ると五十嵐村長が「負けたようだの」と言った。私たちは無言で事務室に帰り、目の前の仕事に手をもどした。喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた。しばらくして、これからどうなるのだろうと思ったが、それに答えるひとは誰もいないこともわかって
いた。
藤沢周平「半生の記」より
8月15日
8月15日の正午に、院長は、医者も、看護婦も、従業員も、患者も…病院中を食堂に集めた。集った一同は、かたずをのんで、あの聞きとりにくい「玉音放送」を聞いた。放送の後、大きな息をひとつして、「これはどういうことですか」と事務長が、院長の方を向いていった。
「戦争が終ったということだ」と院長は短く答えた。数十人の看護婦たちはーみんな土地の若い娘であった。何ごともなかったかのように、いつもの昼食の後と少しも変らず、賑かな笑い声をたてながら、忽ち病室の方へ散っていった。
戦争は遂にどんな教育にもかかわらず、またどんな宣伝にもかかわらず、娘たちの世界のなかまでは浸みこんでゆかなかったのである。事務長をはじめ、職員や、疎開の医局員の多くは、沈鯵な表情をしていた。しかし涙を流した者はひとりもいなかった。
私は院長室にひきあげると、院長とそれぞれの思いに耽りながら、だまって院長がいれた緑茶をすすった。今や私の世界は明るく光にみち.ていた。夏の雲も、白樺の葉も、山も、町も、すべてはよろこびに溢れ、希望に輝いていた。私はその時が来るのを長い間のぞんでいた、しかしまさかそのときが来ようとは信じていなかった。すべての美しいものを踏みにじった軍靴、すべての理性を愚弄した権力、すべての自由を圧殺した軍国主義は、突然、悪夢のように消え、崩れ去ってしまったとそのときの私は思った。これから私は生きはじめるだろう、もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう。
私は歌いだしたかった。
加藤周一「羊の歌」より (改行は管理人)
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